2021年8月20日金曜日

十二)チョープローゼル( 暖かい湖 ) 「哀しき夕陽、作者 能瀬敏夫」より

 





十二)チョープローゼル( 暖かい湖 ) 「哀しき夕陽、作者 能瀬敏夫」より
     
列者が着くと、プラットホームから大分離れたところで、伸び上がるようにして取っ手につかまり、歩哨に押し上げられて乗り込んだ。
客室は二段になっていて、上段の空いている所に身体を捻じ曲げるようにして入り込むと、歩哨と向き合って座った。歩哨は私の監視役としてついてきたのだが、また、私の案内役でもあった。
下の席から上がってくる煙草の煙りと共に、男女の甲高いロシヤ語が交錯した。
大部分が労働者らしく、座席いっぱいに身体を伸ばしたり、そんな喧騒の中に円くなって寝込んでいる者もいる。
そんなロシヤ人の中にたった一人日本人がいるのに、特に注目するでもなく、列車は闇の中を鈍い振動を残して走り続けた。
私はポケットからマホルカ( 茎煙草) をつまみ出して歩哨にあごをしゃくると、彼はズボンのポケットから皺くちゃな新聞紙を取り出した.
二人はマホルカを上手に包み、その端を唇で湿し、指先でしごくと、不恰好だが煙草になった。赤い火が走り、甘辛い香りが口いっぱいに広がり、煙となって吐き出された。
ときどき窓を掠めて鈍い灯りが見えたりしたが、あとは暗さが果てしなく続いているようであった。
五、六時間も走ったであろうか、列車が止まり、歩哨に続いて私も大地に降り立った。中年女性の丸々と肥えた赤ら顔が、カンテラを上げると、列車はそのまま私ら二人を残して走り去った。急に茫漠たるシベリアの大地が足元に広がり、例えようもない不安が私を襲った。
歩哨は何度も来た事があるらしく、自動小銃を斜めに背負うと「ダワイ」と、つぶやくように下を向いて歩き始めた。全く人気の無い大地だが、暗さに目が慣れてくると、おぼろげながら道路の輪郭が見え、厳しい寒さの中にも樹々の若葉が匂うようであった。
 ここは、チョープローゼルと言う所である。「暖かい湖」と、言う意味らしいが、何処にも湖らしい風景は見えず、霞の向こうには深い森が続いているように思われた。
 病院は駅から三、四十分のところにあった。
既に真夜中なのだがぼんやりと灯りが見えた。その点在する灯りの広さから判断すると、随分細長い建物のようであった。
 衛兵所の小窓を開けて、歩哨が二言、三言話すと、予め連絡がしてあったと見えて、すぐ中に入れられた。玄関に入ると消毒薬の匂いがつんと鼻をついたが、それはほっとする程身に沁みる、かつての懐かしい病院の匂いでもあった。
 驚いたことに、白衣を着た日本人の看護婦が現れ、当然のように私を病室に案内した。
 私は彼女を目で追いながら、ポケットをさらう様にしてマホルカを摘み、唖然として彼女に見とれている歩哨のポケットに入れた。彼ははっとしたように視線を逸らし、照れ臭そうにあごをさすると、にやりと笑ってその手を私に差し出した。私はその若者らしい大きなごつい手を握り返し、そのまま胸の辺りで小さく振って看護婦の後に続いた。
 病室には三十程のベッドが並び、心地よい室温にみんなぐっすり寝込んでいるようであった。手続きは明日にするからと、とりあえず体温をとることになった。
「皆さんは何処の部隊でありますか 」
 と軍隊調で問うと、目のくりくりとしたまだ少女さの抜けきらない看護婦は、「私等は孫呉の病院ですよ」と、言った。
「ああ孫呉ですか、孫呉ならよく私のところからも患者を送りました。私はチチハルの病院です」と、急に親しみが湧き、懐かしさが溢れてきた。
 彼女はちょっと目を大きく開いたが、すぐ平静に戻り、「どうぞ」と、体温計を受け取ると鉛筆を握りなおし、急に「あらっ」と、私の顔と見比べ、「もう少し入れて下さい」と、不満そうに押し戻してよこした。
 私は「いいです、もう熱は無いんです」と、覚悟を決めた。
 彼女はきょとんとして「でも…」と、もじもじしていたが、気をとり直したように「では休んでください」と、ベッドの襟を直すと、不思議そうに首を傾げながら廊下に消えた。
 何か、昨日までのことが嘘のようにほっとした気持ちと、まぁ、なるようになるさ、と、自分に言い聞かせる不安な気持ちとが交錯して、ベッドの上で長々と、伸び上がるようにして頭の下に手を組んだ。
 カーテンのない枕元の窓ガラスに、樹々の枝が風のように揺れるのが見え、いつか私は夢の中に入っていった。
 目を覚ますと、朝陽がいっぱいに溢れていた。一斉に朝の検温が始まった。昨夜は少女のように見えた看護婦が、今朝は尼僧のような落ちつきがあり、急に近寄り難いものを感じたが、彼女の口元から出る何気ない事務的な声の響きを、私は思わず目をつぶって深々と味わった。
 当然のことながら、今朝も体温は平常であった。しかし、新患であると言うことで特別に診察があった。診察とは言っても、日本人の若い軍医が聴診器を当てて、触診をするだけのことで、要するにそれだけで可能な範囲の診断ということであった。
 検温表に目を通し、しきりに心音を聞いていた軍医が、「まぁいいか」と、ひとごとのように言って、「二、三日入院して様子を見ましょうよ」と、言った。
 後ろに続いた婦長が寄ってきて、「丁度良かったわ、大丈夫でしたら、この病室の室長をやってくださいよ」と、言う。
 要するに、朝の体操に始まり、食事や伝達事項、病室の掃除、検温の補助、朝夕の点呼、その他諸々に関するこの室の指揮を取ってくれ、と、言うわけである。
 そんなことで、私にとっては入ソ以来久々に平穏な日々が続いた。
 最初軍医は、二、三日と言っていたのに、それが五日となり、一週間となって、漸く退院が決まり、病院の裏側にあったゼムランカ( 宿舎) の訓練隊に入ることになった。
 訓練隊は、退院して作業に参加するまでの体力づくりの場であったから、シベリア各地から、何らかの疾患を経て、辛うじてここまで来た者達の溜まり場であった。
 勿論、完全に治癒した者もいるが、内科的疾患の場合は、触診で分る場合は別として、あとは熱が平静に戻った時点で此処に集められるから、慢性病、神経的疾患、神経痛は因より、心肺に関する疾患も、一定の期間を経過して平熱が認められると、自動的に退院措置が取られるようであった。だから、とても完治したとも思われない兵もいて、そんな兵は、作業を外れて、それで無くとも薄暗いゼムランカの土間に、気だるそうに動いていた。
 しかし、健康を取り戻した者にとっては、ここでの作業は、農作業、ペンキ塗り、公園の掃除、公共施設の便所掃除といった具合に、比較的軽作業であったから、本来の作業に比べると天国であった。
ただ、全くの他国者同士の集団であったから、集団としての統制がとりづらく、作業の割り振り、グループの編成なども難しいが、ゼムランカに戻ると、その暗がりでは、いつも正面に背を向けて、独りでごそごそと何かをしている者が多かった。
 本部には、予め各地の作業場から、作業員の要請が溜まっているらしく、一応回復したと判断された者は、突然のように三人、五人とトラックに乗せられて、何れかの作業場へと送り込まれていった。
 そんなとき、突然私も呼び出されて院長の前に立った。ソ連の軍医少佐である院長は、私を見詰め、手元の書類と見比べながら言った。「ノーセ」と、目で確認してから、「ダモイ、ダモイ」と、私を指差し、通訳を通じて話し始めた。
 意外にも、私らを日本へ帰すと言うのである。入院以来の模範的行動を認め、特に日本側軍医の推薦があったので、それを院長である少佐が承認し、特に今回のダモイグループに入れると言うのである。
 私のほかにも十二名の兵が選ばれたので、彼等は喜びを懸命に堪えて私の左に整列した。
 私は、この十二名を指揮して故国に向かうことになった。
 院長は私に、「妻はいるか 」「両親は元気か 」と、聞いた。「敗戦後の日本は大変だが民主化のために頑張れ」とも言った。
 私の中に、ぼんやりと夢とも現実ともつかない思いが広がっていった。
 本当かもしれない、いや、まさか
 院長が去ると、周囲で成り行きを見ていた兵隊がどっと寄ってきた。みんなが羨ましがり、伝言を頼むと、予め用意していたらしい
小さく書き込んだ紙片を渡す者もいた。まさか、と、まるで信じない者もいたが、徐々に彼らの目の色も変ってきた。
 日本側軍医が推薦し、それを院長が承認すると言う格式ばった行事はかつて無いことで、何か信憑性がありそうであった。

(シベリアへの抑留、極寒の地での凍土と病いとの戦い。生き抜いた者達へ渡された
「帰国の途」という切符とは・・・チチハル陸軍病院経理勤務、そして終戦。ハルピン
への移動・・・、病院開設・・・。傷病兵、難民で施設はあふれ、修羅場と化した。
「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」)

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