2021年8月16日月曜日

九)満州里からチタへ「哀しき夕陽、作者 能瀬敏夫」より

 





九)満州里からチタへ「哀しき夕陽、作者 能瀬敏夫」より

貨車の中の私ら十名ほどの小集団も、やがて帰国への夢が覚め、時々扉の隙間にすうっと浮ぶ月影の流れを背景に、東北弁の誰はばかることのない大声の会話が続いたが、実は頭の中の片隅ではみんな不安に神経を研ぎ澄まして、車輪を伝う鉄の響きをうつろに聞いているのである。
広軌の鉄道だから揺れは少ないが、更に速度を遅くしているのは、この貨車の上を絶えず屋根から屋根へと移動する歩哨への配慮らしい。この寒風を切って走る貨車の上に人が居る。それだけでも信じられないことなのに、彼らは平然と銃を抱えて、走行中の列車の上で終夜の立哨をするのである。
しかし私らもかつて、満州の東の果て東安で初年兵としての教育を受けたときは、小雪が舞う衛庭に並ばされ、ストップウォッチを片手に号令する助教兵長の合図で、さっと素手を寒風にさらし、その指の先からしんしんと痛くなり、みるみる青白く凍結するのを見て、心に水を掛けられた思いがしたものである。
「これが限界だと思うものはバケツに手を入れろ」
バケツの中の冷たい水が、ほっとする温もりのように、やがてじわじわと何とも例えようのないむず痒い痛さが、頭の芯を傷めたものである。
たしかに訓練をすることによって、何秒か或いは何分かの我慢は続くようになる。ところがどうだろう、彼らシベリアから入ったソ連の兵隊は、平気で寒風の中で顔を荒い、素手で馬の手綱を握るのである。この極寒の地にいて、彼らの耐寒力は一種の兵器的役割を果たすのではないかと思ったほどである。
いま貨車の屋根に、こつこつと足音を残して隣の貨車に移る兵の、この常識破りの耐寒力は、彼らの神経の図太さそのものにもつながるのである。
貨車は長いうねりとなって、時折その後尾の灯りか扉の隙間から見え隠れした。
満州里はその語音の通り哀愁を帯びたソ満国境の街である。かつて此処では常時両軍の歩哨が対峙して相手の動きに神経を集中し、夜になると、何処からとも無くあがる無数の証明弾に激烈な情報の模索が行われたところである。そしてこの滔々と流れる黒竜江を渡ると、そこは既に寒気も一層厳しいシベリアの一部なのだ。
突然急ブレーキが鳴り、貨車ごとの連結音が前方から後方へと音をくねらせて移動すると、がくんと急停車し、自動小銃のけたたましい音が夜を裂いて鳴り響いた。
貨車の屋根の上を、後方へと走る歩哨の慌ただしい足音が去ると、更にひとしきり銃音が響き、はたと静寂が蘇った。
すると、後方からロシヤ語のざわめきが聞え、それが怒声となり、徐々に私らの貨車にも近づいてくる。
ソ連との国境い黒竜江を目の前にしての出来事である。誰もが一度は頭に描きながらその決行を諦めていたことを、いま黒竜江を前にして実行した奴らがいるのに相違ない。
歩哨の重い足音が駆け寄ると、扉の外からのぞきこんで、「全員数がわかるように並べ」と言う。その外套の白く凍えた鼻当てから更に白い鼻息が煙のように揺れた。
まだ童顔のその少年兵は、辛うじて数を確かめると得意気に、身振り宜しく今の銃声の顛末を説明した。そして「お前らは止めろよ」と云うと、防寒手袋の拳を挙げて誇示して見せた。
その歩哨の話では、隣の貨車の換気窓から三名が脱走したと言う。勿論貨車の上片隅の三十センチ四方程度の窓だから、一人ずつ逆さに落ちて脱出したに違いない。誰だろう、無事に成功してほしい。それにしてもこの皓々たる月明の中でよくも決行したものだ、国境を過ぎると万策は尽きるので、その前の最後の決断に賭けたのであろう。
歩哨は、「三名とも俺等が射殺した」と、自動小銃を肩に当てて片目をつぶったが、この月明では或いは本当にそうかも知れないと思った。
再び貨車はがくんと重い響きを残して動き始めた。ひとしきり走ると間もなく轟音が響き、冷たい空気がさっと入った。
鉄橋だ。黒竜江だ。国境だ。
どろんとした黒い水のうねりが海のように不気味に続いている。みんなが扉の隙間に上から下へと顔を並べて外を見た。藤根がドラム缶を引き寄せると一番上から見下ろして、がっかりしたような声を上げた。
「こりゃぁ、駄目だ」「やっぱす駄目だわ」
 橋桁を数えるようなリズミカルな騒音が暫く続くと、急にどすんと重い走りに戻り、ここからがシベリアなのだ、と、互いに顔を見合わせた。
 これで、一縷の望みは完全に絶えた。「お前らはダモイだ」「日本へ帰すのだ」と、云い続けて貨車に載せたソ連兵の、それにしてもあまりにも分り切った嘘をよくも言い続けたものだ。と、それに一縷の望みを託した自分の心の浅はかさを棚に上げて思うのである。
 うとろうとろとしていると、夜の底から甲高い女性の声が聞え、気がつくと貨車は完全に停止していた。国境を越えて最初の停車駅である。
「もう脱走は出来ないと思って止めやがったなぁ」、呟くように誰かが言った。
砂利を踏む足音が遠くから近づき、カンテラの光が見え隠れした。暗がりに良く見ると、赤ら顔の中年女性の着膨れた外套が黒く油に光っていた。
その女性にズドラースト「こんにちは」と声をかけると、彼女はカンテラを上げて「ダモイ、ダモイ」「帰国だ、帰国だ」と、黄色い歯を見せた。
「何がダモイだ」と、土橋が怒鳴った。
彼女がカンテラで車輪を照らし、ハンマーを振り下ろすと、甲高い金属音が寒さに震えるようにこだました。とりあえずソ連領に入って最初の形ばかりの点検であった。
そこからひとしきり走ると再び貨車は停止し、歩哨が次々と扉の錠前をはずしていった。飯上げである。
扉を開けると、既に明け始めた空が広々と大地を覆っていた。雪はうっすらと地面に残る程度だが、その寒さは強烈で、思わず鼻をひくつかせて冷たい空気を吸い込んだ。
あらかじめ与えられた員数表で飯の分配である。飯バックを貨車ごとに並べると、一号車から順に受領者を確認しての分配が始まった。飯は白米に油脂を炊き込んだのでキラキラと光り、万一日本に帰れる日がきたら、是非とも真似てみたいと思うほどのうまさであった。
斉藤が、「バックを返納するときは、必ず水をいっぱい入れて返納すること」と、大声で怒鳴った。水は豊富だが絶え間なく汲まないと凍結するので、蛇口の前は長い列になり、運ばれた水は五右衛門風呂のような大釜に入れて、次の炊き出しのために準備した。
やがて夜となり昼となり、こんな飯上げを何回か繰り返したが、この飯上げ時だけが各車輌間の情報交換の場でもあった。みんなが飯上げに夢中になっている間に、隣りの貨車の指揮官に近寄ると、声を潜めて昨日の脱出劇のいきさつを聞いた。
決行したのは本田伍長以下三名だったと言う。私らが想像した通り、換気窓の有刺鉄線を潜り抜けて逆さに落ちて脱出したらしい。
この辺の地理に詳しい開拓団の出身者が先導を買って出たと言うから、もし撃たれていなければ、脱出は成功したかも知れない。と説明してくれた。それにしてもこの厳しい寒気の中を本当に逃げおおせたのであろうか。
飯上げが終わると、それから暫くは我々休息の時である。みんな中段に胡坐して車座になると、いつもの通りおらが村の自慢話である。青森出身の大橋が、大分禿げ上がった頭に手を当てて云った。「藤根のおっかぁは、芸者上がりの美人だっつうもなあ」、すると藤根が、更に禿げ上がった頭を光らせて、「そうでもないってばぁ」と、照れた。
彼らはみんな補充兵だから、何れも私よりも十歳以上は年上である。夫々故郷では専門の大工であったり、長年農業を続けた村の有志であったり、料理屋の旦那であったり、いわゆる妻も子もある一家の主である。それが私を「親父」と呼ぶのだから困ってしまう。
「親父、大阪屋さ唄わせてけろよ」
 大阪屋は秋田県出身の農家だが、土に親しんだ皺だらけの顔と、実直そうなその細い目
は彼の年輪を物語っている。
「大阪屋いっちょういくか 」
 声を掛けると、間髪をいれずみんなが拍手する。大阪屋の顔に似合わぬ美声は、民謡「江差追分」となって嫋々として、鉄の扉を伝い寒風に吸われていった。
 やがて、シベリアはチタ駅を通過するはずである。

(シベリアへの抑留、極寒の地での凍土と病いとの戦い。生き抜いた者達へ渡された
「帰国の途」という切符とは・・・チチハル陸軍病院経理勤務、そして終戦。ハルピン
への移動・・・、病院開設・・・。傷病兵、難民で施設はあふれ、修羅場と化した。
「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」)

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