2019年2月28日木曜日

【三頭の白馬】






【三頭の白馬】

我が家の寝室には レプリカでは
あるが 三頭の白馬の絵
(国武久巳・草原の馬たち)が飾ってある

この絵は 息子が生まれた年に妻に贈った
絵であるのだが 三人の子供をイメージし
元気にすくすく成長するようにと買った
ものだった

長女が午年ということもあって
この絵を選んだ記憶がある

2019年2月28日
二月も終わりの今日の朝に
フッとそんな絵の前に立って感じたことが
ある( ^ω^)

セピアも色あせピンクになった そんな絵を見て
子供達の成長と 何時しかなった白髪頭

「息子も大学生 だものなぁ〜〜〜」
そう呟いて !!!     寝室を後にした

雨は降り 雨は降り
これから筑波に御用で行く
子供達の健康を祈りつつ  
ハレルヤ エーメン

【光が礼拝堂へ注ぐ2019年2月24日】

【光が礼拝堂へ注ぐ2019年2月24日】

陽の光が 礼拝堂に注ぐ
中国語の讃美歌がピアノの音色と共に
安らかに響き渡る
「溢れる」
「あふれる」
「あなたをしたう思い」

権威(けんい)を持ったお方の おられない
暗闇には 嵐が訪れる
嵐は 心を滅ぼすように 信仰心を揺るがし
白波が泡立つように打ち寄せてくるのである

もう引き返すことも 進むことも恐ろしく
たじろぐ思いに 信仰はイエス様を引き寄せ
力づけ 波の上すら歩かせて下さる

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
(イザヤ書 41章10節)

「私だ」の心の信頼関係は 心を救い
よりどころとなって平安を注ぐ
安心と安ど感に満たされるのである

暗闇すらも恐れることはない
主の御声に従うことは 神様の主権と力を
味わうこと 信仰の一歩が神の恵みを
受け入れること

感謝して 感謝して
ただ ただ 神に感謝して
ハレルヤ エーメン
聖霊充満 栄光在主
ヨハネ6章16-21
夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、
舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。
すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところに
おいでにならなかった。
その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に
近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、
すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。
金昌民牧師(船橋市純福音愛隣教会) 「イザヤ43章1-7」音声プログhttps://bethesda.at.webry.info/201902/article_19.html

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2019年2月27日水曜日

【妻が呟く2019年2月26日PM11時15分】

【妻が呟く2019年2月26日PM11時15分】

妻が呟いたニュースを見ながら
「政治って・・・」
「永遠の敵(てき)もいないけど」
「永遠の友もいないものなの」って

ベトナム ハノイ対談
アメリカ トランプ大統領と
北朝鮮  金委員長 の ニュースを見て

そして 続けてこう呟いた
「ベトナムへ行こうかな」
「一緒に行かない」と
パパをスルーして娘へと・・・

娘の「行かない!」の冷めた(さめた)答えに
妻は・・・
「そろそろ 家庭礼拝しようか?」
「お祈りしようか?」と
話しを逸らした 夜だった

アーメン
金昌民牧師(船橋市純福音愛隣教会) 「イザヤ43章1-7」音声プログhttps://bethesda.at.webry.info/201902/article_19.html

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2019年2月26日火曜日

女性ばかりの礼拝堂の夢を見た

女性ばかりの礼拝堂の夢を見た
2019年2月26日

透き通るほどに白い女性たちが
その礼拝堂には集まっていた

レトロに薄暗い木の香り漂う
礼拝堂の左右の窓には ヤハリ
白く光り眩い 女性の絵柄が
イエス様の十字架の道行きのように
ステンドグラスとなって15枚かな?
はめられている

白くChurch passage (教会通路)の
足元を光の剣(つるぎ)となって
スポットライトのように照らしている

ここは ロシアなのか?
    カナダなのか?
これは 聖マリア礼拝なのか?
    悪魔ルシファ礼拝なのか?

透き通る美しい女性ばかりが 
まるでアマゾネス軍団のように
力強く賛美しゴスペルを歌い礼拝を
捧げているのである

私は そんな講壇(こうだん)の前に
もう一人の友人と群衆に向かい合う様に
共に立っていた

此処には 教会の繋がりを求めてやってきた
未知の教会! 多宗教な世界に
新(信)(心)眼開かせる
ために・・・


右の扉から 黄色い光に包まれた女性が
出て来て 近寄って来る
それは それは
美しい女性で 見るも眩しい 
聖書と思えるものを
両手で包み込むように大切に持って 
近づいてくるのである
温和と平安が安らぎと変わり 
尊い平和の 恵みへと覆われる
友人が呟いた
「此処にはずっと居てもイイ」
「もう帰りたくない」と
使命をまっとうするのか?
此処にとどまるのか?
そんな思いが混み上げる
すると 「祭司様・・・」と どこからともなく
声が聞こえてくる

私の後ろから 白い光に包まれた女性が
近づいてくるのを感じる
振り返ると そこには 美しすぎて
アニメに例えるしかないような 例えば
銀河鉄道999のメーテルのように 
抜けるほどに 真っ白い光に包まれた
女性が 囁くように立っていたのである
副祭司!?

その声に
「あなた方は 高価で貴い」
「雪のように 白くありなさい」
そんな声が聞こえた気がして
そして 福音の光が見えた気がして目が覚めた

AM2時45分の目覚めであった
感謝して ハレルヤ エーメン
金昌民牧師(船橋市純福音愛隣教会) 「イザヤ43章1-7」音声プログhttps://bethesda.at.webry.info/201902/article_19.html

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2019年2月24日日曜日

【ヒラキナオッテ?】

【ヒラキナオッテ?】

今日2019年2月24日の
目覚め ウフフッ と笑顔で起きれたたんだ
それは こんな夢を見たからだった( ^ω^)

バス停で一台のバスが
バス停を行きすぎ突き出し止まっている
オーバーランしている

すると
後ろから来た もう一台のバスが
こう呟いて 追い越して行く

「あんたって何時もオーバーランね」
「鼻を突きだして 生意気・・・」って

すると止まっていたバスが こう返事を
返すのである
「ごめんなさいネ」
「何時も鼻を突き出していて」
「バレバレよネ」
「成形って」
そうその言葉をやり過ごす

すると 両方の乗客が
「バトルしてぶつかってドッピンシャンって
 ならなくてよかったネ」と
中に乗っていた人たちがホッとする

そんなトンチンカンな変な夢だった

金昌民牧師(船橋市純福音愛隣教会) 「イザヤ43章1-7」音声プログhttps://bethesda.at.webry.info/201902/article_19.html

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2019年2月23日土曜日

信仰によって触れる マルコ5:24-34 日本語原稿 新しい一年とまたつくば教会に来てメッセージができることを感謝します。今日はすでに、旧正月から13日目です。海外では、仕事や学校など日常と同じく過ごす為、旧正月を祝う雰囲気はないですが、新暦の新年は休暇がある為、年越しの雰囲気があります。皆さんはどのように新年を過ごしましたか?私は、昔は座って一年を振り返る時間が好きでした。そして、新しい一年の達成したい願望を書き出すのです。いつもダイエットや運動、新しい楽器を習ったり、毎月に1冊は本を読むなど活力・熱意溢れた目標や願いを立てます。しかし、1.2ヶ月後、その熱意は日常の中で、少しずつ減り、そしてすこしずつ元の生活・習慣が戻り、あげくは自分がどんな目標や願いを決めたのかさえ忘れてしまいます。目標や願望を貫き通すことは、とても簡単なことではないのです。 しかし、聖書の中ある一人の女性は12年間も貫き通し、最終的に彼女は願いを達成させたのです。マルコ5:24-34を見てみましょう。ここは、長血を患っていた女性が、会堂司の娘を癒しに行く途中のイエスの所へ行き、こっそりイエスの衣服に触れ癒してもらうお話しです。この女性のことはマタイやルカにも書かれています。それは、この物語がとても重要な奇跡の一つだと見て取れます。聖書でこの女性は長血を患っていました。それは婦人病の一種で月経が止まらないような病気でした。この病気は生活する上で不便があるだけではなく、月経の血は不潔と忌み嫌われ、社交生活する上で迫害を受けていました。 聖書では、彼女はこの病気を癒す為、12年間たくさんの医者の所へ行き、たくさんの治療を受けてきました。これらの治療は彼女に肉体的な苦痛を与えるだけではなく、彼女の財産も費やしました。しかし、病状は一向に良くならず返って悪くなったのです。そのような12年間の挫折の中で、みなさんならどのように思いますか?たくさんの人を信じてきて疲れて意気消沈し、解決策があるともう信じることができず、しょうがなく現状を受け入れ、もう二度と何かを試そうと思わなくなりませんか? しかし、この女性はただイエスの噂を聞いただけで、積極的に向かい、混雑する人ごみの中に入り、こっそりイエスの衣服に触ったのです。彼女はイエスの衣服に触れば癒されると信じていたからです。彼女は12年間の挫折と失望の中にあってもなぜこのような積極的な信仰があったのでしょうか。 1. 積極的な信仰を貫きとおす:聖書には当時たくさんの人がイエスに押し寄せていたと記載されています。その中でイエスを必要としていた人がいると思います。彼らはイエスの後ろで、イエスの助けを必要としていたでしょう。しかし、この民衆が押し寄せている状況で、この長血の女性だけが癒されました。この女性は信仰によって、ただただイエスの衣服に触り癒されました。当時イエスは彼女と対面的に接触したことはありません。それは、イエスが自ら女性を癒そうとしてないとも言えます。しかし、女性の積極的な信仰によって触れた衣服のところから、イエスは力が出て行ったことがわかったのです。そして、女性をいやしました。このように触れたのはたった1回だったでしょうか?聖書では当時は人が押し寄せていたと書かれているので、イエスの衣服に触れた人もたくさんいたと思います。だから、その時イエスが使徒たちに誰が服に触れたかと聞いた時、使徒たちは呆れました。そして、「こんなに人が押し寄せているのに、あなたは「誰が触れたのか」と言うのですか。」と答えたのです。しかし、この女性の接触は、イエスにとってきっと予定外の中で、力が出て行き女性を癒したんです。これはどのような渇望が触れさせ癒されたのでしょう?どのような信仰で、彼女と他の人の違いは何だったのでしょう?聖書のルカ18章はやもめと不義な裁判官の比喩によって神にあきらめず祈りなさいと話しています。8節ではイエスは「人の子が来るとき、このような信仰が見られるか?」という質問をしています。諦めず堅く持って祈り求めることは信仰の表現の一つであり、神はこのような信仰を喜びます。 2. 信仰の対象はイエス:この章の聖句の前半は、イエスが悪霊を追い出す奇跡を起こし、二つめは会堂司に頼まれ彼の娘を癒しにいくところです。彼らは皆イエスが自らその場所へ行き、癒し、救っています。しかしこの女性は自分はふさわしくないと思い、ただこっそりイエスの衣服に触れました。このイエスの衣服に触る方法は、女性が自分で考え付いた方法でした。それは、彼女がもし神ならば衣服を触るだけでも癒されると理解していたからです。聖書でもう一人イエスを驚かせた信仰を持った人がいました、それは百人隊長です。マタイ8章に記載されています。百人隊長は権威を知っていました。だから、イエスが神なら言葉にするだけで治ると信じていました。女性と百人隊長の信仰の対象はイエスで、彼らはイエスが神と信じ、イエスには権威と癒しの力があると信じていました。だからこそ神に認知され、神に癒しを求めたのです。彼らの信仰は、神の栄光を証することができるのです。比喩と使って表現して見ましょう。女性と百人隊長が見たイエスの力は、発電所みたいに大きく偉大で、彼らが必要としている癒しは、小さな電球の電力だけで良いのです。今日私たちの信仰はどこにありますか?今日私たちが見るイエスの力はどのようなものですか?それは発電所みたいですか?それか、ただ小さい電球を点すだけの電力ですか?重荷、心配を降ろしてあなたの全てを知っているイエスの力に祈り求め、私たちもイエスの溢れる力と万能の神を証しましょう!アーメン 3. 自分の証を人に話す:最初女性は癒しを得た後、こっそり離れるつもりでした。それは、女性が自分は不潔でイエスが自分に触れるのはふさわしくないと思ったからです。癒される前、女性は人に軽蔑され孤立した社会の中で生きていました。だから、女性の病気が癒されたことを、イエスは女性を民衆の前に立たせ、民衆に自分の体が既に癒され、また命がまだ離れないことを証明させたのです。人前で証をしたことによって、改めて女性が癒されたことが証明され、人目をまた気にすることなく、新しい生活を聖霊とともに過ごしていけるということです。 以前女性はこの世の方法を尽くして使い、助けを受けることができませんでした。イエスのことを耳にするまでは。もし、最初に誰かが証をせず、伝えず、女性の耳にイエスの事が伝わらなければ、今日この長血を患った女性が癒される話しはなかったと思います。聖書ローマ書 私の教会には、金田さんという姉妹がいます。もう80歳以上で彼女は体が弱くたくさんの病気を患いました。心臓もずっと衰え、2年前に転んでから体はもっと衰弱し、外も出ることができず、毎日家にいました。しかし、彼女は証をすることを止めませんでした。彼女は体の状態が許す時は、家に人を呼んだのです。私が彼女のお見舞いに行った時、体はつらそうでしたが、金田さんは喜びに満ちていて、口を開けば聖書の御言葉を話すのです。彼女はよく私に彼女の証を話していました。私は本当に感動しました。私は、彼女の痩せて小さな衰弱した体から神の栄光が出ているのをみました。彼女は来客した人に分かち合い、たくさんの人の信仰を励まし、人に神様を信じるように伝道したのです。 金田さんのように、証することは人に神はいつも私たちと共にいて大きな事を成そうとしていることを証明することです。私たちに対してではなく、神の全能に対して一切を信じるのです。神の栄光はあがめることができるのです。福音を伝えることを英語で言うとshare faithと言い、意味は信仰を分かち合うという意味です。証を分かち合うという事は、私たちが神が私たちに起こした大きな奇跡を覚えさせることを助けます。いつでも感謝し、また信仰が分かち合うに連れ成長しているのです。 今日私たちは既に解放されています。私たちは続けて自分の救われた証を話し、イエスは救い主だと証明し、私たちと同様な新しい命があることを伝えていますか?今日私はみなさんに一つチャレンジして欲しいことがあります。今週一人未信者の方に自分の救われた証を分かち合ってください。神があなたの証を使ってどのように栄光を現すか試してみましょう。アーメン https://bethesda.at.webry.info/201902/article_17.html 筑波福音基督教会2019年2月17日 メッセージ 林文慧宣教師(北京語) 日本語通訳 林佳慧姉    

信仰によって触れる マルコ5:24-34 日本語原稿

新しい一年とまたつくば教会に来てメッセージができることを感謝します。今日はすでに、旧正月から13日目です。海外では、仕事や学校など日常と同じく過ごす為、旧正月を祝う雰囲気はないですが、新暦の新年は休暇がある為、年越しの雰囲気があります。皆さんはどのように新年を過ごしましたか?私は、昔は座って一年を振り返る時間が好きでした。そして、新しい一年の達成したい願望を書き出すのです。いつもダイエットや運動、新しい楽器を習ったり、毎月に1冊は本を読むなど活力・熱意溢れた目標や願いを立てます。しかし、1.2ヶ月後、その熱意は日常の中で、少しずつ減り、そしてすこしずつ元の生活・習慣が戻り、あげくは自分がどんな目標や願いを決めたのかさえ忘れてしまいます。目標や願望を貫き通すことは、とても簡単なことではないのです。
しかし、聖書の中ある一人の女性は12年間も貫き通し、最終的に彼女は願いを達成させたのです。マルコ5:24-34を見てみましょう。ここは、長血を患っていた女性が、会堂司の娘を癒しに行く途中のイエスの所へ行き、こっそりイエスの衣服に触れ癒してもらうお話しです。この女性のことはマタイやルカにも書かれています。それは、この物語がとても重要な奇跡の一つだと見て取れます。聖書でこの女性は長血を患っていました。それは婦人病の一種で月経が止まらないような病気でした。この病気は生活する上で不便があるだけではなく、月経の血は不潔と忌み嫌われ、社交生活する上で迫害を受けていました。

聖書では、彼女はこの病気を癒す為、12年間たくさんの医者の所へ行き、たくさんの治療を受けてきました。これらの治療は彼女に肉体的な苦痛を与えるだけではなく、彼女の財産も費やしました。しかし、病状は一向に良くならず返って悪くなったのです。そのような12年間の挫折の中で、みなさんならどのように思いますか?たくさんの人を信じてきて疲れて意気消沈し、解決策があるともう信じることができず、しょうがなく現状を受け入れ、もう二度と何かを試そうと思わなくなりませんか?
しかし、この女性はただイエスの噂を聞いただけで、積極的に向かい、混雑する人ごみの中に入り、こっそりイエスの衣服に触ったのです。彼女はイエスの衣服に触れば癒されると信じていたからです。彼女は12年間の挫折と失望の中にあってもなぜこのような積極的な信仰があったのでしょうか。

1. 積極的な信仰を貫きとおす:聖書には当時たくさんの人がイエスに押し寄せていたと記載されています。その中でイエスを必要としていた人がいると思います。彼らはイエスの後ろで、イエスの助けを必要としていたでしょう。しかし、この民衆が押し寄せている状況で、この長血の女性だけが癒されました。この女性は信仰によって、ただただイエスの衣服に触り癒されました。当時イエスは彼女と対面的に接触したことはありません。それは、イエスが自ら女性を癒そうとしてないとも言えます。しかし、女性の積極的な信仰によって触れた衣服のところから、イエスは力が出て行ったことがわかったのです。そして、女性をいやしました。このように触れたのはたった1回だったでしょうか?聖書では当時は人が押し寄せていたと書かれているので、イエスの衣服に触れた人もたくさんいたと思います。だから、その時イエスが使徒たちに誰が服に触れたかと聞いた時、使徒たちは呆れました。そして、「こんなに人が押し寄せているのに、あなたは「誰が触れたのか」と言うのですか。」と答えたのです。しかし、この女性の接触は、イエスにとってきっと予定外の中で、力が出て行き女性を癒したんです。これはどのような渇望が触れさせ癒されたのでしょう?どのような信仰で、彼女と他の人の違いは何だったのでしょう?聖書のルカ18章はやもめと不義な裁判官の比喩によって神にあきらめず祈りなさいと話しています。8節ではイエスは「人の子が来るとき、このような信仰が見られるか?」という質問をしています。諦めず堅く持って祈り求めることは信仰の表現の一つであり、神はこのような信仰を喜びます。

2. 信仰の対象はイエス:この章の聖句の前半は、イエスが悪霊を追い出す奇跡を起こし、二つめは会堂司に頼まれ彼の娘を癒しにいくところです。彼らは皆イエスが自らその場所へ行き、癒し、救っています。しかしこの女性は自分はふさわしくないと思い、ただこっそりイエスの衣服に触れました。このイエスの衣服に触る方法は、女性が自分で考え付いた方法でした。それは、彼女がもし神ならば衣服を触るだけでも癒されると理解していたからです。聖書でもう一人イエスを驚かせた信仰を持った人がいました、それは百人隊長です。マタイ8章に記載されています。百人隊長は権威を知っていました。だから、イエスが神なら言葉にするだけで治ると信じていました。女性と百人隊長の信仰の対象はイエスで、彼らはイエスが神と信じ、イエスには権威と癒しの力があると信じていました。だからこそ神に認知され、神に癒しを求めたのです。彼らの信仰は、神の栄光を証することができるのです。比喩と使って表現して見ましょう。女性と百人隊長が見たイエスの力は、発電所みたいに大きく偉大で、彼らが必要としている癒しは、小さな電球の電力だけで良いのです。今日私たちの信仰はどこにありますか?今日私たちが見るイエスの力はどのようなものですか?それは発電所みたいですか?それか、ただ小さい電球を点すだけの電力ですか?重荷、心配を降ろしてあなたの全てを知っているイエスの力に祈り求め、私たちもイエスの溢れる力と万能の神を証しましょう!アーメン

3. 自分の証を人に話す:最初女性は癒しを得た後、こっそり離れるつもりでした。それは、女性が自分は不潔でイエスが自分に触れるのはふさわしくないと思ったからです。癒される前、女性は人に軽蔑され孤立した社会の中で生きていました。だから、女性の病気が癒されたことを、イエスは女性を民衆の前に立たせ、民衆に自分の体が既に癒され、また命がまだ離れないことを証明させたのです。人前で証をしたことによって、改めて女性が癒されたことが証明され、人目をまた気にすることなく、新しい生活を聖霊とともに過ごしていけるということです。

以前女性はこの世の方法を尽くして使い、助けを受けることができませんでした。イエスのことを耳にするまでは。もし、最初に誰かが証をせず、伝えず、女性の耳にイエスの事が伝わらなければ、今日この長血を患った女性が癒される話しはなかったと思います。聖書ローマ書

私の教会には、金田さんという姉妹がいます。もう80歳以上で彼女は体が弱くたくさんの病気を患いました。心臓もずっと衰え、2年前に転んでから体はもっと衰弱し、外も出ることができず、毎日家にいました。しかし、彼女は証をすることを止めませんでした。彼女は体の状態が許す時は、家に人を呼んだのです。私が彼女のお見舞いに行った時、体はつらそうでしたが、金田さんは喜びに満ちていて、口を開けば聖書の御言葉を話すのです。彼女はよく私に彼女の証を話していました。私は本当に感動しました。私は、彼女の痩せて小さな衰弱した体から神の栄光が出ているのをみました。彼女は来客した人に分かち合い、たくさんの人の信仰を励まし、人に神様を信じるように伝道したのです。
金田さんのように、証することは人に神はいつも私たちと共にいて大きな事を成そうとしていることを証明することです。私たちに対してではなく、神の全能に対して一切を信じるのです。神の栄光はあがめることができるのです。福音を伝えることを英語で言うとshare faithと言い、意味は信仰を分かち合うという意味です。証を分かち合うという事は、私たちが神が私たちに起こした大きな奇跡を覚えさせることを助けます。いつでも感謝し、また信仰が分かち合うに連れ成長しているのです。
今日私たちは既に解放されています。私たちは続けて自分の救われた証を話し、イエスは救い主だと証明し、私たちと同様な新しい命があることを伝えていますか?今日私はみなさんに一つチャレンジして欲しいことがあります。今週一人未信者の方に自分の救われた証を分かち合ってください。神があなたの証を使ってどのように栄光を現すか試してみましょう。アーメン

https://bethesda.at.webry.info/201902/article_17.html

筑波福音基督教会2019年2月17日
メッセージ 林文慧宣教師(北京語)
日本語通訳 林佳慧姉
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