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2012年2月13日月曜日

【盗撮】(ノータリンスな高校生)



【盗撮】(ノータリンスな高校生)

2012年2月11日(土)
娘たちが、東京からの帰りに
電車の中で高校生に盗撮されたのだと言う。

初めはニヤニヤ隣の席で仲間通し
笑っていた高校生・・・
その内に携帯電話をかけているふりをして
カメラを此方に向けて来てモゾモゾと
写していたのだという。

どうもターゲットは、娘たち!
何人かで行った中でも
知的障碍を持つ娘の仕草、動作に興味が
あるらしい???

しだいにエスカレートして
(一人でいたら何も出来ない高校生、皆でやれば
怖くないと言わんばかりに?)

写真だけでは、あきたらずに
隠すように映していたカメラを表に出して
移動させながら動画を撮り始めたようだったと
言っていた。

他の女の子たちで睨み付けても、止めることなく
かえって皆で興奮したのか、馬鹿笑いを始めたのだと
言う。

下車する時には、立ち上がりホームの方にまで
追っかけるようにカメラを向けていた高校生・・・

何人もの高校生で薄気味悪い風情だったのだと
言う。

IQ重視の教育は、これから益々、デリカシーも
無い、EQ欠落のノータリンスな学生を増やして
いくのではないかと本当に嘆いて(なげいて)しまう
出来事であった。

主よ お憐れみ下さい
この憐れな学生たちを・・・
エーメン

P.S.

翌日の朝の車の中で、知的障碍を持つ娘は
こんな鼻歌を一生懸命に歌っていた。
♪ 皆が集まる♪♪世界は丸い♪♪世界は丸い♪♪
♪♪ただ一つ♪♪♪♪
そう歌っていた・・・
なにが有っても人が好きで 人を疑わない娘に
なにかとっても感動する一時だった。

(参考)
ディズニーランドのイッツ・スモール・ワールドの「世界は一つ」?

世界中だれだって、ほほえめば 仲良しさ
平和 いのり 手を組み歩こう 小さな世界
世界はひとつ 世界はおなじ 世界はまるい ただひとつ

言葉はみんな ちがってもみんなの心は同じ
肩くみあって 未来へ歩こう 小さな世界
世界はひとつ 世界はおなじ 世界はまるい ただひとつ

It's a world of laughter, a world of tears; it's a world of hopes and a world of fears.
There's so much that we share that it's time we're aware, it's a small world after all.
It's a small world after all,it's a small world after all, it's a small world after all, it's a small small world.

There is just one moon and one golden sun and a smile means friendship to everyone.
Though the mountain divide and the oceans are wide, it's a small world after all.
It's a small world after all,it's a small world after all, it's a small world after all, it's a small small world.
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2012年2月4日土曜日

(「IQ」と「EQ」)



【子育てセミナー台湾出身主婦のスピーチ】
(「IQ」と「EQ」)

今の日本社会では障碍児、障碍者に対して、いつも
「臭いものに蓋(くさいものにふた)」のように特別の
扱いをされています。
かれらには罪があるでしょうか???
反って様々な事件を見れば、罪を犯しているのは
殆どが、いわゆる「健常者」「健常児」あるいは
「頭が良いと呼ばれる人」ではないでしょうか!!!
ご存知のように人間には「IQ」と「EQ」があります。
残念なことにそれが今の社会です。
そして「IQ」の高低に呑み感心を持つ親が多いのも
事実です。
よく「EQ」(人格の健常指数)の存在を忘れがち
でいます。
「EQ」の不健全ならば安心出来る生活環境が作れない
と思います。
学習が出来るか、出来ないかに拘らず、皆が愛を
持ってお互いに理解し、受け入れ、協力し合っていけば
きっと素晴らしい社会を作れると思います。
特に障碍者、障碍児と接触してみると彼らの可愛いさが
きっと分かると思います。

※ EQ こころの知能指数. EQとは? EQとは、自分の感情
(Emotion)を上手にコントロールする能力です。
2005年12月14日
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2012年1月18日水曜日

いじめに勝利しよう!(13頁 あとがき) ライター かみなか さとし




 いじめに勝利しよう!(13頁 あとがき) ライター かみなか さとし

あとがき

 いじめについてまとめてみたいと思い立ち、やっと2011年12月31日に、これだけ書き留めてみました。たぶん、書ききれなかったことや、不備な点もたくさんあることでしょう。それらはまた、その都度書き加えたり、書き直したりしていきたいと思います。
 いじめは、本当に醜いものです。人間の罪が巧妙に表れたものです。そのために、どれだけの子どもたちや大人たちが傷つき、死を選んでいるかしれません。そういう人たちに、またそういういじめを憂えている人たちに、多少でも励まし、助けになればと願っています。
 皆さん、これだけは信じましょう。「親も、学校も、友人も、この社会も、すべてがあなたを見捨てたとしても、あの十字架上であらゆる苦しみを担われたイエスさまだけは、いじめの渦中にあるあなたを決して見捨てない」と。これが、私が一番言いたいことです。

 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6章10〜13節)

参考文献
『いじめと戦おう!』(玉聞伸啓著、小学館)
『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(内藤朝雄著、講談社現代新書)
『いじめの構造』(森口朗著、新潮新書)
『“IT”と呼ばれた子』(デイヴ・ペルザー著、田栗美奈子訳、ヴィレッジブックス)

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2012年1月17日火曜日

いじめに勝利しよう!(13頁中/9-12頁) ライター かみなか さとし

 いじめに勝利しよう!(13頁中/9-12頁) ライター かみなか さとし

せのたびにそのひと言ひと言を忠実にメモしておきました。そして、ある程度、
情報がたまり、いじめの実態が明らかになった時点で、会社の責任者に報告しました。そのことによって私に対するいじめが明るみになり、以後、私へのいじめ、いやがらせはパタッと消えたのです。
 いじめを告発する、いじめ自体を認めてもらうのは、大変難しいことです。語られた言葉は残らず、証拠はなかなか見つからないからです。しかし、まめに記録しておけば、いつか役に立ちますし、記録することによって、相手のいじめ、いやがらせのパターンや攻撃の仕方も見えてくるのです。この戦いは、ほんとうに大変ではありますが、もし職場や学校内でいじめを受けていたら、ぜひこの方法を忍耐強く実践してみてください。この記録を見て、必ず誰かが助けの手を伸ばしてくださいます。

誰かに相談する

 次に大切なのは「誰かに相談する」ことです。それは親や先生、あるいは教会の牧師かもしれません。あるいは弁護士、カウンセラーに相談することもありうるでしょう。
 玉聞さんは「助けて! と言うのは恥ずかしくない」と言います。

 いじめられている人にとっては、今は大ピンチです。えんりょなく「助けて!」と言いましょう。(中略)たった1回の「助けて!」では、何も変わらないかもしれません。だから、いじめがなくなるまで何回でも、いろんな人に言いましょう。いい人は必ずどこかにいます。声が届けば、きっとなんとかしてくれます。でも、届かないと、いい人でもどうにもできません。
 こっちは大ピンチなんです。言ったからといって、何か減るわけではありません。あきらめずに、何回でも言いましょう。

 私がいじめを受けた時は、たまらず社外の信頼できるカウンセラーに相談しました。そのことによって、即、いじめが解決につながったかというと、そうではありませんでした。
 しかし、信頼できる誰かに話すことによって気持ちは楽になりましたし、いじめられている自分を客観的に見つめることができるようになりました。また、妻が大きな相談相手となってくれ、祈ってくれたことも大きな助けとなったことを付け加えておきます。
 一方で、いじめを理解してくれる人が周囲になかなかいないことも事実です。学校の先生や両親、会社の上司に全く理解してもらえず、「とにかく頑張って学校(会社)に行きなさい」、「そんないじめに負けるな」としりを叩かれるようなこともしばしばかもしれません。私もそうでした。だから、思いつく限りの相談相手を想定し、相談しにいくことが大切です。

いじめを避けるために

 最後に、私の体験から、親が子どもをいじめから守るにはどうすればいいか、いくつかアドバイスして終わります。
 まず、今の日本の学校にあまり期待するべきではないということを、お知らせいたします。『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)の著者、内藤朝雄氏は、「生徒たちを閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせる今の学校制度がいじめを蔓延させている」とし、「学校の〈聖域としての特権〉を廃して学級制度を廃止せよ」とさえ提案しています。
 実際に今、学校というシステムが根底から崩れてきているようです。どこの学校でも、多かれ少なかれ、いじめが起きています。ひどい所では、学級崩壊も起きております。また、先生の質もいちじるしく低下してきております。あの金八先生のような先生には、滅多にお目にかかれないのです。ですから、昔のように「子どもを必ず学校に入れるべき」という発想は、時代遅れではないかと私は思っています。
 一方、今は教育手段も多様化してきています。子どもを学校に行かせなくても、高卒認定を取りさえすれば大学受験できますし、留学もできます。今は親が子どもを教育するホームスクーリング、教会が子どもを教育するチャーチスクーリングという新しい教育のあり方も出てきています。実は、歴史的にはホームスクーリングやチャーチスクーリングのほうが、今の学校制度よりも歴史が古いのです。
 今の学校教育は、あまりに危険すぎます。いじめを受ける可能性がかなりありますし、自分の子どもがいじめっ子になる場合もあるでしょう。親の手から離れた子どもが、学校でどんな生活をしているのか、どんな痛い目に遭っているのか、見えないのです。また、もし自分の子がいじめられていたことが分かったとしても、多くの先生は自分に危害が及ばないようにと何もしてくれないかもしれません。学校側は世間にいじめの事実を公表されるのを嫌がりますから、その事実を隠そう、隠そうとするかもしれません。そういう、出口なしの世界に子どもを預けるわけですから、とても危険ではないかと思います。なので、子どもを学校に行かせる場合は、よっぽど情報を集めて、評判のよい学校に子どもを行かせるよう努めるのが、最低限の親の義務ではないかと思います。
 私は、親が子どもを教育するホームスクーリングをお勧めします。もし親が子どもの教育をするならば、少なくとも学校というしがらみの中に子どもを送り出す心配はありません。自分たちでふさわしい教材を見つけ、自分たちのペースで独自のカリキュラムを組んで教育することができるからです。ホームスクーリングは、日本ではまだまだ少数派ですが、特にクリスチャンの間で実践する家族が増えてきており、法整備も進んできております。
 もし、親が子どもを教育するホームスクーリングが負担であるのなら、信頼できるチャーチスクールに子どもを送ることをお勧めします。特に「あなたは神さまに造られた高価で尊い存在である」ことを理念とする、進化論ではなく聖書を土台として教育するチャーチスクールをお勧めします。
 実は、私の家族はホームスクーリングです。娘は小学校就学前からホームスクーリングで学んでいます。きっかけは、チア・にっぽん(URL http://www.cheajapan.com/)という日本でチャーチ&ホームスクーリングを推進する団体のことを知ったからですが、私の場合、ホームスクーリングに踏み出す大きなきっかけは、やはり「学校に娘を送り出すことへの漠然とした不安」でした。妻はまた別の理由でホームスクーリングを選びましたが。
 ホームスクーリングのメリットは、少なくとも親の目の届くところに子どもがいるので、いじめとか学級崩壊とか、学校で起きている様々な問題とは無縁の世界で教育ができるということです。また、教科をまんべんなく教える教育でなく、聖書を土台にその子どもに合った、一番の強みを生かした教育を選べ、実践できるということです。それは、聖書を土台として教育するチャーチスクールにも言えることでしょう。
 また、たとい学校に行けなくても、今ではネットで勉強することもできますし、フリースクールや通信制の学校もあります。教育手段は、学校教育のみではなくなってきているのです。ですから、自分の子どもの状況に一番合った教育手段を見つけて、実践されることをお勧めします。

 最後に、いじめを受けやすいタイプの子ども、大人にアドバイスします。これは、まさに自分自身のことでもあります。
 協調性があまりない、集団からひとりポツンと離れている、浮いているという子ども、大人がいるとします。そういう子どもや大人は、学校、職場という集団の中でいじめを受けやすいかもしれません。しかし、集団という枠組みでは発揮されないけれども、別のすぐれた才能をもっているかもしれません。
 私もまた、集団向きの人間でないことが、後で分かりました。なので、チームで何か取り組むというプロジェクトに参加するよりは、一人で完結できる仕事、すなわちライターという仕事を今、しています。
 あなたも、あなたの子どもも、もしかしたら、野球やサッカーなどのチーム競技には向いていないかもしれません。けれども、陸上競技や水泳、柔道や空手など、個人競技には向いているかもしれません。その特性、才能を小さい頃に見極めて、その得意分野をぜひ伸ばしていってほしいと思います。
 それから、もしあなたが英語や他国語を話せるのなら、あるいは今、子どもに英語教育を施しておられるのなら、別に国内だけに目を向ける必要はありません。あなたの可能性は世界へと広がっています。もしかしたら、あなたやあなたの子どもは、日本ではいじめの対象だったのが、海外ではかけがえのない友人として迎え入れられるかもしれないのです。日本にいた時はいじめられっ子だったけれど、海外に行ったら、いっぱい友だちができたという人を、私は何人も知っています。私の場合も、特に韓国人に相性が良かったようで、「兄貴(ヒョン)、弟(トンセン)」と呼び合える韓国人の親友ももっています。だから、日本国内だけで友だちを捜すのでなく、もっと世界に目を向けて、真の友だちを見つけていきましょう。
続く(13頁中/12-13頁へ)


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2012年1月15日日曜日

いじめに勝利しよう!(13頁中/6-9頁) ライター かみなか さとし

 いじめに勝利しよう!(13頁中/6-9頁) ライター かみなか さとし

ことを語っています。ましてや、「死ね」「お前なんかいなくなれ」と言っていじめをしている子どもや大人たちは、神さまからどんな裁きを受けなければならないことでしょう?
 私たちは日頃、どんな言葉を発しているでしょうか? 相手を励ます言葉でしょうか、それともけなす言葉でしょうか?
 ヤコブの手紙の著者は、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません」(ヤコブ3章9、10節)と戒めています。
 「賛美とのろいが同じ口から出てくる…」。すなわち、「神さま、あなたを賛美します」と言った後、舌の渇かないうちに「あの人、本当にバカだね」と人をけなしている…。これが私たちの実態ではないでしょうか? そんなことがあっては決してならないと聖書は言っています。私たちは神さまの助けを受けながら、舌を制御することを学ばなければならないのです。
 さらに箴言10章には、語ることに関して、実に示唆に富んだ言葉が多く書かれています。

 「心に知恵のある者は命令を受け入れる。むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる」(8節) 
「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある」(19、20節)
 「正しい者の舌はえり抜きの銀。悪者の心は価値がない」(20節)
 「正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚か者は思慮がないため死ぬ」(21節)
 「正しい者の口は知恵を実らせる。しかしねじれた舌は抜かれる」(31節)
 「正しい者のくちびるは好意を、悪者の口はねじれごとを知っている」(32節)

 「言葉は人を生かしもし、殺しもする」と言います。あなたは「正しい者の舌」でしょうか? 「ねじれた舌をもつ愚か者」でしょうか? 私たちは舌を制御することを学んでいかなければなりません。そして、人を面白がったり、からかったりする場面に出くわしたならば、気持ちを強く持って「それは罪です! 神さまが悲しまれる行為です!」と注意してください。「本気にするなよ! 冗談だよ!」と相手は言うかもしれません。でも必ず、冗談が冗談でなくなる時が来ます。また、自分がそれをしているのに気づいたら、直ちにストップし、悔い改めてください。私も、そのことを自分に言い聞かせています。なぜなら、私もいつの間にか人を軽んじるようなことを言っている場合があるからです。いじめられる子ども、大人は、容易にいじめる子ども、大人になりうるのです。
 「面白がる」ことを罪として意識してもらうには時間もかかり、戦いもあることでしょう。それが日本の文化にまでなってしまっているのですから。でも言い続けなければなりません。いじめに発展する前に、またからかわれ、笑い者にされた人が自らの命を絶つまでに追い詰められてしまう前に。

こういう人は注意しよう

 いじめとは何か、なぜいじめはいけないのか、その理由について聖書の言葉から探ってみました。次は、いじめに対する予防策です。
 まず、こういう人は気をつけたほうが良いと思います。何か言ったあとに、「冗談だよ。本気にするなよ」という人です。こういう人は、自分の言った言葉がいかに相手を傷つけているかについて、全く罪責感をもっていません。むしろ、「冗談だよ。本気にするなよ」と言えば赦されると思っています。
 次に、人の弱み、欠点、失敗を攻撃してくる人です。私の場合は、気が効かない、おっちょこちょいなので、人の弱みを指摘してくる人にとっては、格好のカモでした。また、できる人ができない人に「そんなこともできないの?」、知っている人が知らない人に「そんなことも知らないの?」とあざける場面をよく目にします。
 しかし、人の弱みや欠点、足りない部分は、誰にでもあるものです。できる、できないは人によって個人差があります。知識の多少は趣味や好みによって随分違うものです。できなければできるように、知らなければ知るようにすればよいのです。しかし、いじめる側はその弱み、欠点、できないこと、知識の足りなさが、その子ども、その大人にとってとてつもなく大きな欠陥であるかのように吹聴します。
 次に、「バカ、死ね、うざい」などと言われて傷ついている人を見て、面白がって笑う人です。それは、直接手をくだしていない取り巻きに対しても同じことが言えます。ちなみに「笑い」は元気の素と言われます。しかし、健康的な笑いといじめる側の笑いは明らかに違います。人の失敗、弱点をあざ笑い、いじめられている人を見て笑う卑屈な笑いは、明らかに不健康です。本来、その場面では笑ってはいけないものなのです。
 最後に、外面と内面がはっきりと違う、ジキルとハイドのような二面性をもった人です。常習的にいじめをする子ども、大人は、概して二つの顔を使い分けている場合が多いようです。先生や友人、会社の上司や有力者にはいい顔を見せ、弱い立場にいるいじめのターゲットには残虐性を現します。さらに自分の仲間をいっぱい作り、集団で攻撃していくということもします。
 ある時、私に対してはとてもフレンドリーな方がいました。しかし、ある筋を通して、「この人は自分の部下に対しては本当にひどいことをする人だ」という情報を聞きました。私にはいい顔を見せ、他の人には闇の顔を見せているという場合もあるのです。
 「冗談だよ、本気にするなよ」と言い訳する人、人の弱み、欠点を攻撃する人、人がいじめられているのを見て笑っている人、表裏のある人…。私はこういう人たちに対しては距離を置くか、なるべく付き合わない、友だちにもならない、話もしないようにしています。そういう人と一緒にいるよりは、私の存在を心から喜び、フレンドリーに接してくれる、表裏のない、尊敬できる人と一緒に時間を過ごしたほうがずっとよいからです。
 しかし、仕事の同僚や家族にそういう人がいた場合は、どうしても付き合わざるを得ないので、対策を考えます。まずは、なるべく距離を置きます。また、カチンと来るようなことを言われても無視するか、反応しないようにします。しかし、そのいやがらせがあまりにひどい場合は、自分に対して侮辱するようなことを言った時点で、思いっきり怒ります。ある時は、手紙でなぜ怒っているのかを知らせます。それでも収まらなかったならば、信頼の置ける人に相談をします。
 もし、「自分は本当にダメな人間なんだ。死にたい」と思わせるほどのいじめに遭った時は、ぜひ繰り返し自分に言い聞かせてください。「私は高価で尊い存在なんだ」「神さまの最高傑作品だ」「私は愛されるため生まれたんだ」と。それが、ひとり子イエス・キリストのいのちと引き替えにあなたを神の子どもとして選んでくださった、父なる神さまのお心だからです。あなたをけなす、侮辱する、あざ笑うなどの攻撃は、全く無視していいのです。むしろ、神さまのすばらしい作品(まさにあなたです!)にケチをつけるような人を哀れに思いましょう。私はそういう人を見るたびに「可哀想に」と思いつつ、神の審判の座で裁かれないように、この地上にいる間に真の悔い改めができるように、と祈ります。

記録をつける

 次に、実際にいじめの中にいる子どもたち、大人たちへのアドバイスです。もし今、いじめに遭い、苦しんでいる人がおられるならば、『いじめと戦おう!』(玉聞伸吾著、小学館)という本を読まれることをお勧めいたします(玉聞さんのホームページURL http://www.ijimetotatakaou.com/ も参考になります)。その本の中には、いじめに対してどう対処すればよいのか、具体的なアドバイスに満ちています。その中で特に私は、忍耐強く、いじめについての記録をつけることをお勧めします。「いじめの記録をつける」ことは私も実践したことがあり、大きな効果があったからです。玉聞さんは、こう語っています。
 
 記録はとても大切です。とくに「どうしても」だれかに助けてもらいたいときに役立ちます。そして、いつ、そのときが来るかわかりません。(中略)記録をつけると、ちょっとはなれた目で見ることができるようになります。すると「なんでここまでされなくちゃならないんだ!」と強くなります。そのためにも記録をつけましょう。

 私はかつて、職場でいじめ、いやがらせを受けたことがありました。しかも、複数の人からです。彼らは明らかに私の弱点をついてきました。失敗を誇大に吹聴しました。私の言った意見にことごとくノーを言いました。それは実に巧妙、計画的で、上司に「私はこんないじめを受けています」と訴えても、「それは君の思い過ごしだ」と相手にしてくれませんでした。それでも私はいやがら
続く(13頁中/9-12頁へ)

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2012年1月13日金曜日

いじめに勝利しよう!(13頁中/3-6頁) ライター かみなか さとし

 いじめに勝利しよう!(13頁中/3-6頁) ライター かみなか さとし

いじめ、いやがらせはクリスチャンの間でさえも起こりえます。でも、安心してください。イエスさまだけは、あなたの味方です。すべての人が見捨てても、すでに想像を絶するようないじめを体験されたイエスさまだけは、あなたと共にいて、あなたを激しいいじめの中から助け出してくださいます。

 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8章31節)

いじめとは「面白がる罪」

 いじめとは一体、どういうものでしょうか? 文部科学省が児童・生徒の問題に関する調査で用いるいじめの定義は、「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」だそうです。そして、いじめは何か特別な問題や背景があるから起きるわけではなく、そうした問題の有無とはさほど関係なく起きうるとしています。すなわち、ちょっとしたきっかけでいじめは発生し、広がってしまうというのです。
 実際に、みんなはどうして自分をいじめるのか、なぜ自分がいじめのターゲットになってしまったのか、悩む子どもたち、大人たちも多いと思います。私もまた、「なぜ、この私がターゲットにされ、いじめを受けなければならないのか? 自分にいじめられるだけの悪いところがあるからなのだろうか?」と悩んだことがあります。しかし、今はこうはっきり言えます。いじめはいじめる側の気まぐれによるもので、いじめられる側には全く問題はなく、100%いじめる側が悪いということです。

 私はいじめとは、「面白がる罪」だと考えています。すなわち、人をからかい、面白がる言動や行為から始まって、それが全体に伝染していくというものです。
 人間は誰でも失敗やミスをするものです。その失敗やミスを指摘し、矯正するために叱る、注意するのなら納得ができます。失敗した人はその言葉を甘んじて受け入れるべきでしょう。
 しかし、時として人は、その叱る、注意するという行為に加えて、「お前って、本当にドジだなあ」、「何やってもダメだなあ」、「バカじゃないの」といったメッセージを込めて伝えている場合があります。それがエスカレートすると「お前なんか、人間のくずだ」、「生きている資格なんかない」、「死んだ方がましだ」と、存在否定発言にまでいくことがあります。そして「バカ、ドジ、まぬけ」というレッテルをその人に貼りつけて、いつまでもそういう眼鏡でその人を見、集団でからかい、面白がる…。これが、いじめです。
 「バカ、ドジ、まぬけ」というレッテルを貼られた本人は惨めです。どんなに一生懸命頑張っても、いい働きをしても、いつでもそのレッテルがつきまとうのですから。私は、そんな非人間的な行為を「面白がる罪」と呼んでいます。

見逃される「面白がる罪」

 罪には、盗みや殺人、姦通など、行いの罪があります。これらの行為ははっきりと分かるので、明らかに犯罪として裁かれますし、やってはいけないことだと誰もが認めることでしょう。
 しかしこの「面白がる罪」は、主に言葉による攻撃なので、殺人罪や窃盗罪のようには法で裁かれません。一般的にそれが罪だとか、悪いことだとも決して言われません。なので、この社会では大目に見られてしまいがちです。いじめる側はそのことをよく知っているので、自分に害がおよばない範囲でいじめを繰り返します。
 実際に、いじめをする子どもや大人は、学校や職場では一目置かれている人たちが多いと言います。また本人もいじめのターゲット以外の子どもたち、大人たちには良い子ども、大人を演じているので、周りの人たちは「まさか、あの子(あの人)があんなひどいことをするはずがない」と思ってしまいます。いじめる側も、「悪気があったわけじゃないんだ」、「冗談だよ」、「たいしたことはないんだよ」、「真に受けるなよ」という、とっておきの言い逃れで、いじめの事実をうやむやにしてしまう場合が多いのです。これが、いじめの問題の難しさであり、やるせなさでもあります。
 しかし、だからと言ってその行為を野放しにしておくと、「お前はバカだ」、「死ね」と言われ続けた相手が自分に失望し、追い詰められた末に自殺するということもありえます。あるいはその積み重ねが相手に怒りを起こさせ、凶悪犯罪へと導く場合もあります。ですから、私はこの「面白がる罪」を見過ごすわけにはいきません。
 「面白がる罪」の重要なポイントは存在否定、つまり「けなす、からかう、侮辱する、弱みを攻撃する」などです。この相手の人格を軽んじる行為が、ふだんの何気ない会話の中で結構、行われています。特に「本気にするなよ! 冗談だよ!」と言ってくる相手は、自分の言っていることに対して全く罪責感を感じていないので、要注意です。
 母親からの虐待を生き抜いた人として知られているデイヴ・ペルザーは、自著『“IT”と呼ばれた子』(ヴィレッジブックス)で、自身の体験をこう書いています。
 
 母さんは氷のように冷たい声になり、ぼくの顔を指でこづいた。
 「これだけはしっかり頭にたたきこんでおきなさい、このばか野郎! おまえが何をやったって、わたしによく思われることなんかないの! わかった? おまえなんかどうだっていい! おまえなんて〝IT(それ)〟よ! いないのと同じよ! うちの子じゃないよ! 死ねばいいのよ! 死ね! 聞こえたか? 死んじまえ!」
 母さんは手紙をびりびり細かく引き裂くと、顔をそむけてまたテレビを見はじめた。ぼくはその場に突っ立ったまま、足もとに雪のように散らばった手紙の残骸を見つめた。
 今までだって、同じようなことは何度もくり返し言われてきたけれど、今回の〝IT〟という言葉ほど残酷な言葉はなかった。
 ぼくは〝IT〟なのだ。人間以下なのだ。

 IT(それ)…。これほど人間の尊厳を無視したひどい言葉はないでしょう。しかし、いじめの現場で発せられる言葉、例えば「お前なんかいないほうがいい」「生きている価値などない」「死ね」といった言葉は、まさに〝IT〟と同じくらい、ひどい言葉ではないでしょうか?

聖書は言葉の罪を指摘する

 聖書には「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1章27節)とあります。エペソ人への手紙には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(2章10節)と書いてあります。その「作品」とは、神さまの最高傑作品を意味します。すなわち、人間はみな神さまの最高傑作品であるのです。また、私たち一人ひとりに対して「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)と語っておられます。まさに、あの有名な韓国ゴスペルのタイトルのように、神さまは一人ひとりに「きみは愛されるために生まれた人」(イ・ミンソプ作詞・作曲)と語ってくださるのです。ですから私たちは、神さまによって素晴らしく、美しく創造された人間一人ひとりに対して、「バカ、死ね、うざい」なんて、冗談でも決して言ってはいけません。それは、神さまの創造物に対する侮辱行為であり、神さまを悲しませることにもなります。
 にもかかわらず、私たちの周りには、しかも、クリスチャンの間でさえ、なんと存在否定的な言葉に満ちあふれていることでしょうか?

 最近のテレビ番組の視聴率ランキングを見てみると、某お笑い番組が常に上位にあります。このお笑い番組は、噺家たちが司会者のお題に従って、面白おかしく答えるという番組です。しかし、私はある時から、この番組を平安な気持ちで見ることができなくなりました。理由は、しばしば噺家同士でやり合う場面が出てくるからです。例えば、「ハゲ頭」、「馬づら」、「腹黒」、「バカ」と平気で言い合います。私たちはそれを大笑いしながら見ているのです。そして、こういう番組が日本で一番よく見られている人気番組の一つなのです。これもまた、日本にいじめがはびこる要因となっているのではないかと私は危惧しています。
 さて、聖書はどうでしょうか? 聖書は、言葉遣いについても注意を促します。例えば、マタイの福音書5章22節にはこう書いてあります。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」
 聖書は明らかに「ばか者」「能なし」という者には、死後に厳しい裁きがある
 続く(13頁中/6-9頁へ)
[ボイスプログ]ジョシュア四十四
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