いじめ、いやがらせはクリスチャンの間でさえも起こりえます。でも、安心してください。イエスさまだけは、あなたの味方です。すべての人が見捨てても、すでに想像を絶するようないじめを体験されたイエスさまだけは、あなたと共にいて、あなたを激しいいじめの中から助け出してくださいます。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8章31節)
いじめとは「面白がる罪」
いじめとは一体、どういうものでしょうか? 文部科学省が児童・生徒の問題に関する調査で用いるいじめの定義は、「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」だそうです。そして、いじめは何か特別な問題や背景があるから起きるわけではなく、そうした問題の有無とはさほど関係なく起きうるとしています。すなわち、ちょっとしたきっかけでいじめは発生し、広がってしまうというのです。
実際に、みんなはどうして自分をいじめるのか、なぜ自分がいじめのターゲットになってしまったのか、悩む子どもたち、大人たちも多いと思います。私もまた、「なぜ、この私がターゲットにされ、いじめを受けなければならないのか? 自分にいじめられるだけの悪いところがあるからなのだろうか?」と悩んだことがあります。しかし、今はこうはっきり言えます。いじめはいじめる側の気まぐれによるもので、いじめられる側には全く問題はなく、100%いじめる側が悪いということです。
私はいじめとは、「面白がる罪」だと考えています。すなわち、人をからかい、面白がる言動や行為から始まって、それが全体に伝染していくというものです。
人間は誰でも失敗やミスをするものです。その失敗やミスを指摘し、矯正するために叱る、注意するのなら納得ができます。失敗した人はその言葉を甘んじて受け入れるべきでしょう。
しかし、時として人は、その叱る、注意するという行為に加えて、「お前って、本当にドジだなあ」、「何やってもダメだなあ」、「バカじゃないの」といったメッセージを込めて伝えている場合があります。それがエスカレートすると「お前なんか、人間のくずだ」、「生きている資格なんかない」、「死んだ方がましだ」と、存在否定発言にまでいくことがあります。そして「バカ、ドジ、まぬけ」というレッテルをその人に貼りつけて、いつまでもそういう眼鏡でその人を見、集団でからかい、面白がる…。これが、いじめです。
「バカ、ドジ、まぬけ」というレッテルを貼られた本人は惨めです。どんなに一生懸命頑張っても、いい働きをしても、いつでもそのレッテルがつきまとうのですから。私は、そんな非人間的な行為を「面白がる罪」と呼んでいます。
見逃される「面白がる罪」
罪には、盗みや殺人、姦通など、行いの罪があります。これらの行為ははっきりと分かるので、明らかに犯罪として裁かれますし、やってはいけないことだと誰もが認めることでしょう。
しかしこの「面白がる罪」は、主に言葉による攻撃なので、殺人罪や窃盗罪のようには法で裁かれません。一般的にそれが罪だとか、悪いことだとも決して言われません。なので、この社会では大目に見られてしまいがちです。いじめる側はそのことをよく知っているので、自分に害がおよばない範囲でいじめを繰り返します。
実際に、いじめをする子どもや大人は、学校や職場では一目置かれている人たちが多いと言います。また本人もいじめのターゲット以外の子どもたち、大人たちには良い子ども、大人を演じているので、周りの人たちは「まさか、あの子(あの人)があんなひどいことをするはずがない」と思ってしまいます。いじめる側も、「悪気があったわけじゃないんだ」、「冗談だよ」、「たいしたことはないんだよ」、「真に受けるなよ」という、とっておきの言い逃れで、いじめの事実をうやむやにしてしまう場合が多いのです。これが、いじめの問題の難しさであり、やるせなさでもあります。
しかし、だからと言ってその行為を野放しにしておくと、「お前はバカだ」、「死ね」と言われ続けた相手が自分に失望し、追い詰められた末に自殺するということもありえます。あるいはその積み重ねが相手に怒りを起こさせ、凶悪犯罪へと導く場合もあります。ですから、私はこの「面白がる罪」を見過ごすわけにはいきません。
「面白がる罪」の重要なポイントは存在否定、つまり「けなす、からかう、侮辱する、弱みを攻撃する」などです。この相手の人格を軽んじる行為が、ふだんの何気ない会話の中で結構、行われています。特に「本気にするなよ! 冗談だよ!」と言ってくる相手は、自分の言っていることに対して全く罪責感を感じていないので、要注意です。
母親からの虐待を生き抜いた人として知られているデイヴ・ペルザーは、自著『“IT”と呼ばれた子』(ヴィレッジブックス)で、自身の体験をこう書いています。
母さんは氷のように冷たい声になり、ぼくの顔を指でこづいた。
「これだけはしっかり頭にたたきこんでおきなさい、このばか野郎! おまえが何をやったって、わたしによく思われることなんかないの! わかった? おまえなんかどうだっていい! おまえなんて〝IT(それ)〟よ! いないのと同じよ! うちの子じゃないよ! 死ねばいいのよ! 死ね! 聞こえたか? 死んじまえ!」
母さんは手紙をびりびり細かく引き裂くと、顔をそむけてまたテレビを見はじめた。ぼくはその場に突っ立ったまま、足もとに雪のように散らばった手紙の残骸を見つめた。
今までだって、同じようなことは何度もくり返し言われてきたけれど、今回の〝IT〟という言葉ほど残酷な言葉はなかった。
ぼくは〝IT〟なのだ。人間以下なのだ。
IT(それ)…。これほど人間の尊厳を無視したひどい言葉はないでしょう。しかし、いじめの現場で発せられる言葉、例えば「お前なんかいないほうがいい」「生きている価値などない」「死ね」といった言葉は、まさに〝IT〟と同じくらい、ひどい言葉ではないでしょうか?
聖書は言葉の罪を指摘する
聖書には「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1章27節)とあります。エペソ人への手紙には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(2章10節)と書いてあります。その「作品」とは、神さまの最高傑作品を意味します。すなわち、人間はみな神さまの最高傑作品であるのです。また、私たち一人ひとりに対して「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)と語っておられます。まさに、あの有名な韓国ゴスペルのタイトルのように、神さまは一人ひとりに「きみは愛されるために生まれた人」(イ・ミンソプ作詞・作曲)と語ってくださるのです。ですから私たちは、神さまによって素晴らしく、美しく創造された人間一人ひとりに対して、「バカ、死ね、うざい」なんて、冗談でも決して言ってはいけません。それは、神さまの創造物に対する侮辱行為であり、神さまを悲しませることにもなります。
にもかかわらず、私たちの周りには、しかも、クリスチャンの間でさえ、なんと存在否定的な言葉に満ちあふれていることでしょうか?
最近のテレビ番組の視聴率ランキングを見てみると、某お笑い番組が常に上位にあります。このお笑い番組は、噺家たちが司会者のお題に従って、面白おかしく答えるという番組です。しかし、私はある時から、この番組を平安な気持ちで見ることができなくなりました。理由は、しばしば噺家同士でやり合う場面が出てくるからです。例えば、「ハゲ頭」、「馬づら」、「腹黒」、「バカ」と平気で言い合います。私たちはそれを大笑いしながら見ているのです。そして、こういう番組が日本で一番よく見られている人気番組の一つなのです。これもまた、日本にいじめがはびこる要因となっているのではないかと私は危惧しています。
さて、聖書はどうでしょうか? 聖書は、言葉遣いについても注意を促します。例えば、マタイの福音書5章22節にはこう書いてあります。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」
聖書は明らかに「ばか者」「能なし」という者には、死後に厳しい裁きがある
続く(13頁中/6-9頁へ)
[ボイスプログ]ジョシュア四十四
http://www.voiceblog.jp/joshua404/
[ボイスプログ]ベテスダ・柏
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◎ ヤフーに出品しておりますのでご覧下さいませ
(旧約・旧約続編・新約・ジッパー聖書有ります)
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