2012年1月12日木曜日

いじめに勝利しよう!(13頁中/1-3頁)

いじめに勝利しよう!(13頁中/1-3頁)

                       ライター かみなか さとし
はじめに

 いじめを苦に自殺をしたというニュースが絶えません。政府統計によると、2010年に文部科学省が認知した、特別支援学校を含めた小学校から高校までのいじめ件数は75,295件で、1校あたりの認知件数は2人、いじめを認知した学校の件数は42%でした。ただし、本来、いじめに相当するのに「いじめと認定されなかった」ものや、いじめがあるのに「ない」と言っている学校もあることを考えると、その実数はもっと大きな数字になるのではないかと思います。また、いじめは学校だけでなく職場でも、もっと言えば教会の中でさえも起こりえます。そう考えると、いじめはどこででも体験されうる身近な問題ではないでしょうか?
 この小冊子は、いろいろな場面でいじめに遭っている人に対して、クリスチャンの立場から、何らかのサポートができればと思い、筆をとりました。また、なぜいじめが罪なのか、いじめをしてはいけないのか、聖書の視点から私なりに学んだことをお分かちしたいと思っています。
 ぜひ、これを読んで、いじめに遭っている人が少しでも楽になり、またいじめを未然に防ぐための手助けになればと、心から願ってやみません。

イエスさまこそいじめの体験者だった

 今、すでにいじめに遭っている子どもたちや大人たち、いじめというつらい、苦しい中を通っている子どもたちや大人たちに、まずこのことをお知らせしたいと思います。それは、イエスさまもまたいじめを体験された方だったということです。
 イエスさまが十字架に架かられる前、当時の民衆や指導者、兵士、犯罪人からどんな仕打ちを受けられたでしょうか? そのことが福音書に詳細に描かれています。

 「民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え』と言った。『これはユダヤ人の王』と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりは悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。」(ルカ23章35〜39節)
 「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた』という聖書が成就するためであった。」(ヨハネ19章23、24節)

 イエスさまは生涯、罪のない、正しいお方でした。にもかかわらず、イエスさまは「ユダヤ人の王と自称した」として不敬罪で捕らえられ、犯罪者とされ、当時、最も残酷な刑とされる十字架刑に処せられました。そして、イエスさまが十字架にかかる前に、民衆や指導者、兵士、犯罪人までもが、イエスさまに対して、あらんかぎりの侮辱的な言葉を投げかけ、イエスさまが着ていた着物を四分し、下着は誰のものになるかくじ引きするという愚かな行為をしました。まさに、イエスさまはいじめの極みを体験されたのです。その極みの中で発せられたのが、以下の祈りの言葉です。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」(ルカ23章24節)

 私たちは、イエスさまが半端でないいじめを受けた体験者であったことを知る時に、次のことが言えるのではないでしょうか? それは、イエスさまご自身がいじめの体験者であるがゆえに、どんなに陰湿で、ひどいいじめを受けている子どもたち、大人たちの気持ちをも、他の誰よりも深く理解し慰めることができる、ということです。イザヤ53章3節には、イエスさまについてこう預言しています。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」
 イエスさまは、人が顔をそむけるほどさげすまれ、人々からのけ者にされた経験があるがゆえに、同じくいじめの渦中にある子どもたち、大人たちの苦しみ、悲しみ、痛みをも理解できる方なのです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」(第二コリント1章4、5節)

 また、イエスさまは「インマヌエルなるお方」(マタイ1章23節参照)でもあります。「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味です。すなわち、イエスさまは今、いじめを受けている子どもたち、大人たちと一緒にいて、そのいじめの攻撃を共に受け、苦しんでくださる、ということなのです。たとい、友だちも親も先生も、学校も警察も、すべてのものがいじめを受けているあなたを見捨てたとしても、たった一人、イエスさまだけは激しいいじめ攻撃の中に置かれているあなたと共にいて、一緒に苦しみ、一緒に耐え、その戦いを一緒に戦ってくださる、ということです。この事実を知る時、今、現実に激しいいじめ攻撃を受けている子どもたち、大人たちにとって、大きな、大きな支え、助けとなるのです。

「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」

 実は私自身、イエスさまがいじめを体験されていたという事実を知ることによって、ものすごい屈辱体験を乗り越えられたということがかつてありました。
 それはあるクリスチャンの集まりの中でのことです。私はその日、昼、夜と、食事の祈りの当番でした。クリスチャンは食事の前にお祈りをします。祈りの当番は、その日歌う賛美の歌を選び、一緒に賛美したあとメンバーの誰かを指名し、お祈りしてもらう係のことです。ところがお昼に私が食堂に来ると、すでに賛美は終わっており、お祈りが始まっておりました。そして、お祈りが終わったあとは何事もなかったかのように食事が始まっておりました。そのグループのリーダー格であるAが、勝手に祈り手を指名し、食事の祈りを始めていたのです。
 私の頭の中は真っ白になりました。テーブルで食事をしている人々の何人かは、私のほうを見てニヤニヤしていました。皆、私が祈りの当番であることを知っていたはずです。しかし、誰もAを止めようとはせず、何事もなかったかのように食事が進んでいったのです。
 私のプライドはズタズタでした。こんな小さな奉仕でさえやらせてもらえないことに、くやしさでいっぱいでした。「どうして誰も止めてくれなかったのか」と、その場にいた人たち全員を憎みました。そして、私の中で怒りが爆発しそうになりました。もし神さまが、あの聖書の言葉を私の心に語りかけてくださらなかったら、大暴れしていたことでしょう。
 ところがその時、私の心の中にあの言葉が迫ってきたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と。
 この言葉によって、イエスさまが共にいてくださることを確信し、私は冷静になることができました。そしてAをはじめ、その場にいたメンバー一人ひとりが、憎しみの対象であるよりも、神さまの目から見れば可哀想な人たちなのだと思えるようになりました。
 そして、夜です。私は少し早めにテーブルに着きました。そして、みんながそろったところで祈り手を指名しようとすると、またもAが勝手に祈り手を指名し、指名された人は祈り始めようとしました。しかし、主から言葉をもらっていた私は、威厳をもってはっきりこう言えました。「祈りをストップしてください。担当は私です。私に従ってください!」
 この時、その場で大きな歓声が上がりました。その場にいた人たちは、明らかに私とAのやりとりを面白がっておりました。
 この体験は、神さまを信じ救われた仲間たちの集いの中で起こった出来事でもあったので、そのことで私の中に大きな傷が残りました。でもこの体験を通して私は、次のことを学びました。それは、いじめはどんなグループや組織、クリスチャンの集まりにおいてさえも起こりうるということ、一方でイエスさまだけはどんな時にも裏切らず、いじめられる側の味方であり続けてくださるということです。
続く(13頁中/3-6頁へ)
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