2021年8月14日土曜日

六)哈璽浜もやがて冬「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」より

 




 六)哈璽浜もやがて冬「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」より
 
 更に一時間も経って、三人それぞれの絶望感は、厳しい寒さと共に一層現実的になっていった。
「これじゃあ、今夜一晩持たないぜ」兵隊からたたき上げの荒井さんだが、銀縁眼鏡のしたの細く冷たい目をしばたいた。
 五十島がおしくらまんじゅうだと身体をぶつけてきた。それをそのまま荒井さんにぶつけると、「駄目だ、痛くて駄目だ」と、顔をしかめて手を上げた。私達の寒さはもう老いた彼には痛さなのだ、と思うと急に心細くなった。
 「まあ、いつかは死ぬんだ、三人一緒もいいじゃないか」と、殊更強がりを見せる荒井さん、すると私に再び繁華街を行進したときのあの清々しい諦観のようなものが蘇ってきた。私は腹に力を入れて目をつむり、何かを思おうとした。そうだ家のことだ。親父の「ばんざーい」と言ったときの、あのごま塩混じりのひげ面、出征するときのお袋の言葉も無く絶句した顔、そして目隠しをした私の胸を円い空気が突き抜けるのを想像した。「しゃあないけど、さむいなぁ」と五十島。
 私は急に尿意をもようして立ち上がった。煤けた裸電球が翳を落す。彫刻のような厠に向かって小便をすると、小便は彫刻の上から少し地べたに流れ、直ぐそのまま凍りついてしまった。
 と、突然扉が荒々しく開いて、先ほどの憲兵の一人が「みんな出ろ」と、言うように手招きをする。三人が後ろに続いて出ると、直ぐ近くの事務所らしい所に入れられた。
 既に隊長と、朝鮮人と一目で分かる通訳が待機していた。通訳はわざわざ本部から連れてこられたと不機嫌だったが、少々なまりながらも充分日本語が理解できた。
 先ず私達が捕えられた理由として「ソ兵を利用した辻強盗だろう」と、言っているという。私は先ず「衛兵にいきさつを聞いてくれ」といった。通訳は衛兵に話しかけたがすぐ諦めて、「隊長の言った通り衛兵は、正しいロシヤ語がまるで分からない、だからお前等と行動を共にしたその理由が分からないのだ」「ただ、銃には発砲した形跡が無いし、お前等と一緒に行動をするように命ぜられた」とは言っている。
 そこで私らははっと気がついた。「実は我々は国際赤十字社に加盟している陸軍病院の勤務者である。既に一千人以上の患者を抱えて困っている。その食料確保のため特に衛兵を借りて街に出たのだ」と、説明する。
 そこでふと、我々が軍服の上に着ている黒いよれよれの擬装用の満人服に気がついた。荒井さんが慌てて満人服の上衣を脱ごうとし
たので黒いボタンがぱらぱらと散った。カーキ色の軍服の左腕に、鮮やかな白地に赤い赤十字のマークが見えた。
 通訳が説明する前に隊長が、なぁんだ、といった顔をした。私も急に生気が蘇って満人服を脱ぎ捨てた。五十島も突き出すように左腕を出した。
 荒井さんは通訳を通じて、私等は毎日生死をさまよう病人のために市中を歩いて食糧を集めている。是非とも協力して頂きたい、と協力を依頼した。
 隊長は「ハラショッ」と首をすくめて両手を挙げた。要するにこれで全てが終わったのだ。「もう帰れ」そして衛兵が他の憲兵に連れてこられ、更に隊長に厳しい注意を受けていたが、それも大部分が理解出来ないらしく、頭だけ中途半端に下げて全てが終わった。
 私達は晴れて外に出た。松花江から吹き寄せる地吹雪が、ぱぁっと顔面を襲ったが、銃を取り戻した衛兵と共に、なるべく早くこの場を離れようと足を速めた。
 途中で衛兵に「約束だから中華料理を食べようか」と、ニヤニヤしながら言うと、「ニェット、ダモイ」「いや帰る」と言う。
 馬車に乗り帰途についた。長いシューバーの襟を立てた御者のチョーっという風を切った鋭い声と共に、急に馬車は走り出した。
 私は何か衛兵が可哀相になり、ポケットにありったけのひまわりの種をつかむと、彼の外套のポケットに入れてやった。彼はにやりと黄色い歯で好意を見せた。それはソ連と言う広大な国の中の矛盾を見せてしまった照れの笑いの様でもあった。
 既に暗くなった哈璽浜の街を、馬車は威勢良く風を切って走った。
 病院に着くと同僚や看護婦達が玄関口まで出てきて待っていた。衛兵所も同様で、一斉に彼を囲んで矢継ぎ早に何かを聞いていたが、急にげらげらと彼の頭をもみくちゃにして笑った。
 院内はほっとするほど暖かかった。私ら三人は互いに手を握り合って今日も生きた、と心から思った。

 真冬が近くなると病院としても、一人でも多くの人を減らすことを考えなければならなかった。ところが患者は減るどころか、チブスの猛威は一層激しいものになっていった。死を想定した患者は別室に集めて、新たな患者を入れなければならなかった。
 死出のための特別室に入れられた患者は、大部分が脳を侵され、或いは意識もうろうとして何の手立てもなく、凍えるような寒さの中に放置され、時の流れに身を任せていた。
 死亡が確認されるとその瞬間、遺髪や小指を保管して姓名を確認するのが精一杯であった。ときどき看護婦が来て動かなくなった患者の頬をたたき、瞼を開いて死の確認をした。
 昼食のとき少し遅れて入ってきた佐々木が入り口の洗面所で手を洗い、食卓の前に来て
ポケットのハンカチを引き出した。と、食卓にころころとソーセージのようなものが転げてきた。私が箸で摘まもうとすると彼は慌ててそれを拾ってポケットに治めたが、彼がたった今看取ったばかりの患者の小指であった。
 病院関係者以外は病院を去れ、と、これはソ連側からの要求であったが、病院を維持する我々としても、出来れば一人でも人員の減ることが望ましかった。
 ところがこの数ヶ月間、互いに生活を共にするうちに何故か離れがたい連帯感のようなものが芽生えていった。
 そんな中でもある者は密かに街に出て、自分の安住の場所を求めていた。
 最初にその行動を開始したのは、開拓団出身の地元に詳しい青年か、現地召集の予備兵の連中であった。病院の使用人であった朝鮮人や満人と連絡をとって身を隠した者もあった。
 やがて、もっとはっきり看護婦又は患者以外の女性は院外に去れ、と、ソ連側の要求があった。
 軍司令部の事務員としてはるばる日本から単身赴任した女性数十人、その仲には哈璽浜に到着以来、私の仕事を助けて手足のように働いてくれた多くの女性がいた。
 軍人軍属の家族にしても、健康なものは何時までもここに居るわけにはいかなかった。
夫々が夫々の方法で外部との連絡をとり、病院を離れる宿命にあった。
 衛生兵がさきに出て、何処かに居所を見つけると何名かを呼び寄せる、ということもあった。
 又、そのような日本人を献身的に助ける在留の日本人や、かつて日本人の恩恵を受けた満人の助けが意外に多かったことも見逃せない事実であった。
 そのようにみるみる彼女等の姿は、この病院から消えていった。そしてこの病院を去った彼女等の全く未知なたどたどしい生活が、否応なしに始められたのである。
 辛うじて住を得た者は、食のために働かなければならない。当時極めて安給料だった地元の巡査等が、日本女性をメードにすることは二度とありえない誇りであった。だから彼女等にしても安易な労働は女中として働くことであった。しかし、それにはそれなりの危険もあった。雑用の積りで雇用された彼女等が、途中で金も取らずに逃げ帰ることもしばしばであった。
 あるいは、在住の日本人の中には最初から第二、第三夫人として性を対象に住み込む者もあった。勿論そんなことが出来るのは街でも有数の富豪なので、彼女等は比較的優遇され、金糸銀糸の中国服に身を飾ってマーチョに揺られる姿が目についた。みんなに軽蔑されながら富裕な道を選ぶべきか、惨めだが真摯に自分の道を夢中になって進むべきか、実は判断に苦しむところであった。
 一方豆腐屋などの下請けとして、豆腐の卸を受け、それを何名かに分けて売り捌く方法もあった。何れもそんな場合は男勝りの気骨のあるリーダーが必要であった。
 街角の屋台に日本人によるおでん屋が出来た。ところが店の前には二重三重に人の群れが出来てしまい、彼らは一様にこの日本女性の一挙手一頭足を猥らな目で追い続けた。次の日に通ったときは既にこの店は無かったから、やはりリーダーが危険を感じて閉鎖したのに違いない。
 しかし、その頃になると売り食いも限界なので、当然街で働く女性も多くなり彼女等の必死の思いが見よう見真似で商売を成り立たせているようであった。
 靴を磨くのは比較的若奥さんや娘だが、片言のロシヤ語で「スパシーボ」等と笑みを返すと、その笑みを求めて若いソ兵のどでかい靴がどさりと突き出される。
 通りすがりに、「どうですか 」 と声を掛けると、最近病院を出てばかりの参謀の奥さんは、ひまわりの種を駅弁売りのように前に抱えて、「この頃漸く声が出るようになりました」と、さびしく笑っていた。厳しく寒い二月の石畳の上であった。

(シベリアへの抑留、極寒の地での凍土と病いとの戦い。生き抜いた者達へ渡された
「帰国の途」という切符とは・・・チチハル陸軍病院経理勤務、そして終戦。ハルピン
への移動・・・、病院開設・・・。傷病兵、難民で施設はあふれ、修羅場と化した。
「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」)

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