2025年12月27日土曜日

韓国の信仰の友より2025年12月22日・23日・24日・25日・26日・何時も有難う御座います。

 


韓国の信仰の友より2025年12月22日・23日・24日・25日・26日・何時も有難う御座います。

2025年12月22日

列王記上9章黙想:二度目の御声
神殿の飾りつけが終わり、黄金色の栄光がエルサレムの稜線を満たすとき、神はもう一度、ソロモンの夜の中へと歩み入られます。ギブオンでの最初の出会いが、胸躍る青年の夢だったのなら、今日のご訪問は、成熟した魂へ向けられた厳粛でありながらも、いとおしい愛の警告です。神は、華麗な杉の柱よりも、その内に宿る一人の中心を、さらに深く見つめておられます。
「わたしは、あなたの祈りと、あなたがわたしの前に願った願いを聞いた」(3)。このみことばは、ひやりとするほど美しい。私たちの祈りが虚空に散る叫びではなく、宇宙の主権者に届く静かな息づかいであることを、確かにしてくださるからです。しかし、主の約束は標本のように固まった遺物ではありません。それは生きて息づく川の流れのようで、私たちがそのみことばの水路に沿って歩むことをやめるなら、豊かさはいつでも渇きへと変わり得るのだと、厳しく告げます。
ソロモンが献げたのは、きらめく石と金でした。けれども主が求められたのは、「あなたが心を全くし、正しくして、わたしの前に歩むこと」でした(4)。主は祝福を約束しつつ、その祝福がとどまる場所を問われます。私たちが積み上げた業績の城壁がどれほど高くても、その中心から神への純粋な畏れが失われるなら、それは結局、「ことわざとなり、笑いもの」となってしまうのです(7)。その警告が、なぜか胸の深いところを切り裂きます。
今朝、私は自分の心の神殿の門柱を、そっと撫でてみます。神に献げた献身という名のもとに、実は自分の王国を固めようとしたことはなかっただろうか。主は、華やかな「カブルの地」の町々よりも(13)、名もなくひざまずき、従う子らと共に歩むことを喜ばれます。冷たい夜明けの空気を裂いて聞こえてくる、その御声に耳を澄ませます。最も眩しい成功の頂でこそ、私たちは最もへりくだった心で、主の御名を呼ばなければなりません。私たちの人生が、崩れた城壁の破片ではなく、いつまでも燃え続ける聖なる灯となりますように、そう願わずにはいられません。

2025年12月23日

列王記上 10章の黙想:ソロモンに学べ!
砂漠の荒い砂埃を払いながらエルサレムの城門に入ったシェバの女王。彼女の華やかな行列の後ろには、金や香料よりも重い「難問」(1節)が隠されていました。人生の神秘を前に突き当たった切実な難問たちは、ソロモンの前に至って、ようやく穏やかなさざ波のように解け始めました。王の答えは、単なる機知ではなく暗闇を照らす光であり、冷たい論理ではなく魂が歩むべき道でした。
女王は息をのみました。目の前に広がる精巧な食卓や廷臣たちの秩序ある服装(5節)よりも彼女を圧倒したのは、そのすべての豊かさを貫く巨大な知恵の源でした。「幸いなことでしょう。あなたの部下たちは。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる彼らは」(8節)。知恵が人間の有能さを証明する道具を超えて、創造主の栄光を投影するとき、初めて賛辞は人を通り抜け、神へと回帰します。
私たちは毎日、シェバの行列のように、世の華やかな証拠を収集しようと躍起になります。純金やびゃくだん木で人生の柱を立て、目に見える可視的な成就によって存在を証明しようとします。しかし、女王が告白したように、私たちが目撃する世の華やかさは、「その半分も語られていなかった」(7節)本質の影にすぎません。
真の知恵は、一年に運び込まれる「金六百六十六タラント」(14節)の重さにあるのではありません。それは、騒がしい黄金色の騒音が静まった場所に訪れる深い平穏であり、「正義と公義を行わせる」(9節)主の慈しみ深い御心の中に留まる謙卑さです。今日、私たちの人生が誰かの行き詰まった問いへの答えとなり、結局のところ「あなたの神、主がほめたたえられますように」(9節)という告白を引き出す、清らかな風景となることを切に願います。

2025年12月24日

列王記上11章黙想:福音の蝶番がゆるむとき
ソロモンの崩れは、稲妻のように突き刺さった罪ではありませんでした。むしろそれは、絹のように柔らかな妥協でした。人間味あふれる「これくらいなら」という言葉が、心の蝶番をゆるめていき、愛という名のぬくもりが、いつの間にか神を押しのけていったのです。聖書は静かに、しかし断固として告げます。「ソロモンの心は…彼の神、主に全き心ではなかった」(4)。その“不完全さ”は一度に起こったのではなく、湿り気がじわじわと木を腐らせるように、信仰を内側から侵食していく破壊でした。崩れたのは王座ではなく、中心でした。
始まりは、ほんの小さな一歩でした。一歩は小さく見えます。けれども小さな歩みが繰り返されると道となり、道はやがて、方向を決めてしまいます。高き所は、最初から壮麗な神殿ではありませんでした。石を一つ置き、また一つ積むうちに、エルサレムの栄光のかたわらで、異なる香りが立ちのぼっていったのです。「ソロモンは…高き所を築いた」(7)。炎のように燃えていた知恵は、小さな容認の灰の上で、少しずつ光を失っていきました。
福音宣教も同じです。巨大な反対が宣教を阻むのではなく、私たちの心に潜む「その程度なら」という妥協が、道を塞ぎます。みことばを握るより体面を握り、祈りを先延ばしにして忙しさを信仰だと取り違え、人を得るために真理を薄く削ってしまう。そうして小さな妥協が積み重なると、いつか私たちは、十字架の単純さで語れなくなります。世が福音を薄めるのではない。私たちの内なる“高き所”が、福音をかすませるのです。
それでも神は、引き裂きながらも断ち切られません。「わたしは必ずこの王国をあなたから引き裂き、あなたのしもべに与える。しかし…ダビデのために」(11-13)。さばきの刃先にも、約束の光は残ります。今朝、主は問われます。私の心の蝶番は、どこでゆるんでいるのか。小さな妥協を悔い改めるその瞬間、福音の道は再び開かれます。神へと向き直る一歩は、崩れた王国よりも大きな、新しい道の始まりです。

2025年12月25日

列王記上12章黙想:政治の不安が偶像を生み出すとき
列王記上12章は、「国が二つに裂けた日」の記録である以前に、一人の恐れがどのように礼拝を変え、共同体の心臓を揺さぶっていくのかを映し出す鏡です。レハブアムの言葉は荒く、民の肩に載せられたくびきはいっそう重くなりました(14)。ひと言が刃となって、長く積もっていた嘆きが一気に噴き出します。「イスラエルよ、自分の天幕へ帰れ」(16)。その叫びは反逆の合図というより、ついに聞かれなかった心の悲鳴でした。
しかし、より深い亀裂は北で始まります。ヤロブアムは町々を築き、王座を固く据えようとします(25)。けれども彼の夜は眠りません。民がエルサレムへ上って行けば、心が再び奪われるのではないか。その恐れが押し寄せてくるのです(27)。恐れはいつも、「合理的な代案」という衣をまといます。遠くへ行くな、ここで十分だ。もっと楽に、もっと安全に。そうして彼は金の子牛を二つ立て、こう言います。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの国から連れ上ったあなたの神だ」(28)。政治の不安が礼拝を組み替え、権力の計算が神を“製造”します。政治的な欲望と恐れが、神を「扱える大きさ」へと縮め、投げ捨てるとき、偶像は生まれるのです。
神は「兄弟と戦ってはならない」と言って、彼らを止められました(24)。心が揺れるとき、私たちには「代わりの神」を立ててしまう癖があります。信仰の道を短くし、十字架の道を迂回させる甘い近道が、思いのほか早く私たちの内側を占領します。主よ、私の恐れが礼拝を変えてしまわないようにしてください。便利さが真理の代わりにならないようにしてください。今日、飼い葉桶に伏してくださったイエスの十字架へと私の心の向きを、もう一度、まっすぐに向け直してください。

2025年12月26日

列王記上 13章の黙想:温かな偽り
権力を守るために築き上げられたベテルの祭壇、そこから立ち上る炎は、神が喜ばれる香りではありませんでした。その不浄な煙の中へ、ユダから来た一人の「神の人」が歩み入ります。「祭壇よ、祭壇よ」(2節)。彼の叫びに、無機質な石たちが先に反応して祭壇は裂け、灰が崩れ落ちます(5節)。憤怒して差し伸べられたヤロブアムの手は、そのまま麻痺して固まってしまいました(4節)。絶対権力の鋭い手さえも、御言葉の威厳の前では、一瞬にして枯れた木の枝のように無力化するだけです。
しかし、真の霊的戦いは、華やかな祭壇の前ではなく、孤独な使命の終わりに始まりました。事役を終えた彼を待ち受けていたのは、敵の脅威ではなく、老預言者の「温かな偽り」でした。「そこではパンも食べず、水も飲んではならない」(9節)。主のこの至厳な命令は、命よりも重い錨(いかり)でしたが、「私もあなたと同じ預言者だ」(18節)という親しげな囁きに、張り詰めていた魂の糸は力なく緩んでしまいます。
従順とは、壮大な決断以前に、細やかな方向を最後まで守り抜く正直な呼吸です。温かな食卓の上のパンは香ばしかったものの、その香りの裏側には、使命を蝕む微細な亀裂が隠されていました。使命者の耳を塞ぐのは、荒れ狂う嵐ではなく、時に「神の名」を借りて近づいてくる柔らかな妥協の声なのです。行くべきでない道で立ち止まり、手にしたその一切れのパンは、結局、非情なほどに冷ややかな死の代償となって返ってきました。
今日、私たちもまたベテルの分かれ道に立っています。世は常に慈愛に満ちた顔で妥協の食卓を整え、私たちを招きます。人の善意に満ちた声が、主の微かな細き声を遮ることのないよう、今朝、心の耳を清く洗い流したいと願います。たとえその道が飢えと孤独に満ちていても、最後まで歩み抜く者だけが、真の天の安息に辿り着けるからです。

感謝 ハレルヤ

Deo Gracias



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(韓国) 2025/7/27渋谷区ベテル教会&葦のかご教会夕拝「同じ血の流れる家族」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/6/15オリュン教会日本語礼拝「あなたを孤児にはしない」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/6/8オリュン教会日本語礼拝「聖霊により生き返れ」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/5/25オリュン教会日本語礼拝「結びついた友」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/5/18オリュン教会日本語礼拝「結婚と夫婦」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/5/4オリュン教会日本語礼拝「親と子の関係」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/L9in8blLOzQ?si=Bo0W06vBo02Kgj0a


(韓国) 2025/4/13オリュン教会日本語礼拝「私の為の十字架」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/4/6オリュン教会日本語礼拝「聖餐に与る恵み」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/3/23オリュン教会日本語礼拝「宮清め」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/3/9オリュン教会日本語礼拝「心を裂いて」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/Km2BL-S3oEM?si=AM84n-lafuojHOZa


(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
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【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
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【賛美】いつもいつまでも
Seekers (Always
andForever
항상영원히까지
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