2025年12月31日水曜日

その御翼の陰に置かれて

 



その御翼の陰に置かれて

神様の風に打たれて
風が秋の木の葉を躍らせる
神の風が 寒さに潤い赤くして
風の宴(うたげ)に躍らせる

神様の風に打たれて
風が春の香りを運び来る
桜の花弁は風にそよいてゆらゆらと
恵みを あなたに注がれる

あなたは 神様の風の内に住み
あなたは 常に 愛されている

あなたは いつも 神様に見守られ
あなたは いつも 愛されている

神様は いつも あなたの隣で
あなたを 守り その御翼の陰に置いて
下さる

あなたは 守られ
あなたは 愛されている

ハレルヤ ハレルヤ
ハレルヤ アーメン

Deo Gracias デオグラシアス



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(韓国) 2025/7/27渋谷区ベテル教会&葦のかご教会夕拝「同じ血の流れる家族」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://www.youtube.com/live/55RSDdrDkmg?si=L6iJK_kG2jFWaTb7


(韓国) 2025/6/15オリュン教会日本語礼拝「あなたを孤児にはしない」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/6HuqOJQMzZs?si=yM9WcNd9Wn2wZ9Qd


(韓国) 2025/6/8オリュン教会日本語礼拝「聖霊により生き返れ」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/W6m70es1_GM?si=Ebye5qBtaEWKTqW0


(韓国) 2025/6/1オリュン教会日本語礼拝「主はあなたを喜ぶ」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/tzlJjVrDJtc?si=V0-YWv-_f3ICZc-S


(韓国) 2025/5/25オリュン教会日本語礼拝「結びついた友」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/7qVCTJxIOko?si=kTuBnuaw-FVdCFDv


(韓国) 2025/5/18オリュン教会日本語礼拝「結婚と夫婦」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/W-ih-O22bmQ?si=VCiIIg0owd1jb4G7


(韓国) 2025/5/4オリュン教会日本語礼拝「親と子の関係」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/L9in8blLOzQ?si=Bo0W06vBo02Kgj0a


(韓国) 2025/4/13オリュン教会日本語礼拝「私の為の十字架」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/koN9EF16LZU?si=sqvaf70X3UNaRULc


(韓国) 2025/4/6オリュン教会日本語礼拝「聖餐に与る恵み」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/X_LkE6FgyOI?si=Po2kMdnLMUQGXuNs


(韓国) 2025/3/23オリュン教会日本語礼拝「宮清め」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/QG0CQwQra2w?si=G0sVpjO9MYaP0wsv


(韓国) 2025/3/9オリュン教会日本語礼拝「心を裂いて」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/Km2BL-S3oEM?si=AM84n-lafuojHOZa


(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
http://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075994


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【賛美】いつもいつまでも
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andForever
항상영원히까지
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2025年12月30日火曜日

栗ヶ沢バプテスト教会礼拝2025年12月28日「幼子イエスはナザレへ」木村一充牧師(ボイスプログ)

 


2025年12月28日 

栗ヶ沢バプテスト教会礼拝

賛美:「205まぶねの中に」・「203おさなご主イエスよ」

「羊飼い集うベツレヘムで」・「207緑も深き」

メッセンジャー 木村一充牧師

題「幼子イエスはナザレへ」マタイによる福音書2章19-23節

20251228
写真をクイックして頂くと音声プログに繋がります。
http://lection.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-848404.html




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栗ヶ沢バプテスト教会「幼子イエスはナザレへ」(2025年12月28日

亀有キリスト福音教会_第四聖日礼拝_2025年12月28日

札幌カーデンチャーチ2025/12/28/飯田結樹牧師_成果(Doing)が死んだ夜も、神は共にいた 燃え尽きから再生へ(ヨシュア記 1:5-7)

令和7年12/28葦のかご教会&ペテル教会_坂本兵部牧師_天に属する者の人生(20:1-12)

ライフハウス東京2025/12/28/日本語/英語/FINISH STRONG - FINISH WITH PRAISE 力強く締めくくる - 賛美をもって締めくくる

2025年12月28日土浦グレイスキリスト教会の主日礼拝ー『一年を振り返り。私たちの苦しみは神さまの本心ではない』

「しっかり主を知りましょう」 2025年 12月 28日 主日礼拝 寄居チャペル yorii chapel

純福音船橋愛隣教会2025_12_28_義の道、栄光の道。(ローマ3:21-26) 令和7年12月28日_金昌民牧師

12/28【バイリンガル(日本語音声ストーリー)】LIFEHOUSE KIDS ONLINE ~ライオンからたすけられて

つくばキリストの愛教会2025/12/28イエス様はどこへ?/Where is Jesus?/예수님은 어디에?

第一水戸バプテスト教会2025年12月28日「万軍の主の御名によって」サムエル記第一17章41節~58節(武井俊孝牧牧師)(ボイスプログ)

 


2025年12月28日第一水戸バプテスト教会_「万軍の主の御名によって 」サムエル記第一17章41節~58節(武井俊孝牧牧師)(ボイスプログ)
https://www.mitofbbc.com/2025/12/28/万軍の主の御名によって/


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聖書箇所:サムエル記第一17章41節~58節
メッセージ題目:万軍の主の御名によって
 今日は今年最後の礼拝となりました。みなさまにとりまして、今年はどんな年になりましたでしょうか? 私はこの年の終盤になって、ダビデのデビューにまつわる箇所からみことばをお取り次ぎしながら、主によって備えられた主の器はいかにあるべきかを教えられました。
 私たちもいろいろな戦いを体験しています。家庭であれ、職場であれ、学校であれ、地域社会であれ、自分の思いどおりにするにはあまりに難しい課題にぶち当たったりすることがしばしばあるものです。人間関係かもしれません。新しい技術を取得することかもしれません。あるいは、自分自身の健康という問題であったりするかもしれません。
 しかし、私たちは、自分にとっての戦いというものの本質を見失ってはなりません。みことばは語ります。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペ6:12)してみますと、私たちの闘う相手は、人でもなく、ましてや自分でもなく、悪魔、また悪霊であることがわかります。
 私たちはときに、例えば職場などで、面倒くさい人、やたら威張る人、いやな気分にさせる人を「敵」と見なしたりはしないでしょうか? しかし、みことばによれば、そういう人たちはどんなに、私たちにしてみれば、不敬虔、不従順、不信仰なように見えたり、感じられたりしたとしても、「敵」ではないのです。「敵」は、その背後に働いて、私たちを攻撃するサタン、そしてその手下である悪霊どもです。
 そういうことからも、だれかのことをさばいたり、悪口を言ったりするということは、私たちクリスチャンには似合いません。その人が悪いのではなく、その人を操るサタンならびに悪霊どもこそが悪いと見なし、そういう、悪い感情を抱かせてしまう人々に対する、そのマイナスの感情は、手放してまいりたいものです。
 そこで、私たちの敵がサタンであるということはわかりましたが、それではどのように戦うものなのか・・・・・・今日の箇所は、そのことを私たちに教えてくれています。これを、5W1Hで解いて考えてみましょう。
 まずはhowです。大前提として、ダビデは「万軍の主の御名によって」ゴリヤテに立ち向かっています。ダビデはたしかに戦場にいましたが、もとはといえばそれは、戦うためではありません。お父さんのお使いで、兵隊に食べ物の差し入れをして、従軍しているお兄さんたちの安否を知って、お父さんのもとに便りを持ち帰るためでした。だから、着ているものにしても、簡素な服装でしかありません。
 しかし、ダビデはいざ戦うとなったら、それで充分でした。彼は羊飼いの服装、それこそ、労働のための簡素な服装でも、クマやライオンのような猛獣が羊の群れに襲いかかろうものなら、それに飛びかかり、やっつけていました。素手で打ち殺せたというから大したものです。要するに、私たちが想像するような、よろいかぶとに盾と剣を帯びた古代の兵士のような格好などしなくても、充分に戦えたのです。彼にとって武器などは、羊飼いとして持ち歩いていた石投げで充分でした。
 しかし、彼は丸腰ではありませんでした。彼には、何よりもすごいものがありました。それは「万軍の主の御名」です。これはどういうことでしょうか? 人間の大軍団など到底太刀打ちできない、全知全能なる、父なる神さま、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神さまの三位一体の神さまが、天の大軍勢を率いて、ダビデをとおしてゴリヤテとその背後にある神に敵対する勢力に立ち向かい、戦ってくださる、ということなのです。これほどの力、無限の力をいただいているわけですから、ただ見栄を飾る以上のものではないサウルの武具など、全く必要ありません。
 では、who、だれが戦うかを見てみましょう。昨日、新たな宣教の場所に旅立ってゆかれた金先生が繰り返しおっしゃっていたことを、思い出していただきたいのです。私たちクリスチャンは、実はすごい存在であるのだと。私たちのうちにイエスさまがおられるということは、第三の天にいますイエスさまが、ご自身天に至るはしごとして私たちとつながり、天におられると同時に、私たちのうちにおられるのだと。だから私たちは絶えず、天の御力と祝福をいただいているのだと。
そして、イエスさまがうちにおられる以上、聖霊なる神さまがうちにともにおられ、父なる神さまがうちにともにおられるのだと。三位一体の神さまがうちにおられるのです。いやはや、私たちはどれほどすごい存在なのですか! このお方が、ダビデをとおして戦われ、勝利してくださったように、私たちをとおして戦ってくださるのです。当然、私たちは勝ちます。「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。」(黙17:14)ときに、負けた、と思えるようなときでも、主が戦ってくださるかぎり、私たちは勝利しているのです。
しかし、万軍の主の御名によって戦うと、私たちが口にするとき、問われるのはその動機です。私たちはもしかして、どこかで、自分のために、名誉ですとか高い地位ですとか、豊かで安定した暮らしですとか、そういったことのために、主の力を「動員」するかのような態度でいたりはしないでしょうか? それは大間違いです。そういうことに「霊的」な力を借りようとする生き方は、「宗教」にすぎません。私たちキリスト者の生き方はそういうものでは決してありません。主が主体であり、私たちは主に用いていただくのです。
神さまがサムエルを遣わされ、ダビデに油が注がれて以来、主の霊がダビデに激しく下るようになりました。それは、ダビデの主人がか弱い少年である自分自身ではなく、世界の何よりもお強いお方、主が生きてくださるという生き方です。パウロのことばのとおりです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラ2:20)しかしそれは、自分の古い人がキリストとともに十字架につけられて、もう死んでいる、生きているのは復活のキリストのいのちである、ということです。
ゆえに、私たちの戦いは目に見えるものが相手ではありません。目に見えるものの背後にうごめく悪しき存在、目に見えるものを操る悪しき存在、そういう邪悪な存在と戦うべく召されています。この戦いは主の戦いです。主が戦ってくださいます。主の戦いに、私たちは用いていただくのです。
その戦うダビデ、彼は神の霊の臨む、神の人です。そのダビデはなぜ戦うのでしょうか? Whyを問います。それは、ゴリヤテによってイスラエルに浴びせられた、その恥辱をイスラエルから取り除くためです(17:26)。
ダビデが問題にしたのは、イスラエルがゴリヤテを前にして、情けなくも震え上がっているからではありません。ゴリヤテがそのようなイスラエルのことを、ペリシテの神々の名により呪い、馬鹿にすること、それによってイスラエルの神が、あたかもペリシテの神々よりずっと弱く、また情けないもののように扱われていること、それを問題にしたのでした。
感情というものは、たしかに聖書のみことばという事実、そしてそれが事実にして真理であるという信仰に伴って生じるものであり、感情に振り回されることは信仰生活とは言えません。しかし、聖霊の臨む人、ゆえに神との交わりをつねに喜ぶ人には、ひとつの感情が伴います。それは、神さまが無視されること、神さまが馬鹿にされることには、耐えがたい怒りの感情を抱く、ということです。
ヤコブの手紙1章20節で戒められているとおり、「人の怒りは神の義を実現」しません。私たちにとっての怒りというものは多くの場合、みこころにかなわない肉的な感情の現れに過ぎないものです。しかし、それは、私たちの中から湧き上がる怒りの感情を何でもかんでも否定すべきだ、ということではありません。パウロにしても、アテネの町が偶像でいっぱいなことに怒りを覚え、その感情はパウロを福音宣教へと促しました。これは、持つべき怒りでした。
 私たちが怒るとき、その怒りが正当か不当かは、聖霊なる神さまが教えてくださいます。アテネにおけるパウロの怒りは正当でしたが、神さまがニネベに悔い改めのみわざを起こされたことに対する預言者ヨナの怒りは不当でした。私たちの抱く怒りが主にあって正当か不当か、それは、聖書を読めば客観的にわかることです。
普段から祈りつつ聖書をまんべんなく読むことを心がけていれば、私たちは聖霊に導かれ、いざ、心に怒りを覚えるとき、それが主にある聖なる怒りであるならば、感情は高ぶっていても、心の奥底には不思議と平安があるものです。
 そしてダビデは、神の御名をそしるゴリヤテに激しい怒りを燃やしましたが、その怒りはみこころにかなった正当なものであったゆえ、ダビデの心には不思議な平安、落ち着きがありました。普段、猛獣を狙って石を撃つように、ゴリヤテの急所という的を外さずに石を撃ち込みました。
 私たちは怒ることも多いものです。何かあると、かっとなって、声を荒らげたくなったり、暴言を吐いたりしたくなる誘惑にさらされるものです。しかし、その怒りは果たして主から来る、正当なものなのでしょうか? 怒る私たちの心に、ほんとうに平安はあるのでしょうか?
 逆に、明らかに主の御名が無視されるような状況を見聞きするとき、私たちの心はどうなっているでしょうか? 先週、私たち教会は、クリスマス礼拝をおささげする、素晴らしい時間となりましたが、そんな教会のことなど見向きもしないで、人々はクリスマスセールに行ったり、パーティーをしたり、デートをしたりします。昨今はクリスマスマーケットなんてものもブームになっています。でも、教会には行きません。そんなふうに、てこでもイエスさまに目を向けさせまいと日本人を操るサタンの存在とその働きに私たちはもっと怒り、この霊的な妨げをとどめてくださいと、もっと祈るべきではなかったでしょうか?
 こういうことには怒っていいですし、怒るべきです。切なる祈りはそこから出てきます。何が起ころうとも平然としているならばそもそも、いっしょうけんめい祈る理由がありません。怒るべきときに怒ってこそ私たちはキリスト者です。主の御名がけがされることに対する怒りから主に叫び求める、その祈りをもって、私たちは悪しき霊的存在と戦うのです。そしてもちろん、主が十字架と復活をもってすでに勝利してくださったゆえ、私たちはこの戦いに勝利します。アーメン!
 あとの3つにまいりましょう。「where」、彼はいきなり、戦場に放り込まれました。しかし、主の戦いをすることにおいては、羊の牧場だろうと、戦場だろうと、彼には同じことでした。任された羊のために猛獣と戦うことと、神の民なるイスラエル、ひいてはその主なる神の御名のためにゴリヤテと戦うことは、ダビデには同じことでした。いずれも、「神の栄光を現す場」という点で同じでした。
 私たちの人生も、いろんな場面を経験しています。自宅、職場、行き帰りの車、買い物先、その他諸々、しかし、どこにおいても言えることは、私たちはどこにいても、「神の栄光を現す」戦いに置かれている、ということです。
 そんな、無茶な、と思いますか? しかし、ほんとうのプロフェッショナルは、つねにどんなときも、自分がその立場に置かれていることを前提にあらゆる振る舞いをします。テレビや映画に出演するようなスターのプライベートがさらされてスキャンダルになることがやたら人の関心を引くのは、スターたるもの、いつ、どんなときも、スターとして振る舞ってほしいという人々の要求に応えることそのものが仕事であり、生き方であるからです。だから、スキャンダルがなくて高い人気を誇るスターはほんとうにすごいプロ意識を持っていることになります。
 私たちはテレビに出ないかもしれませんが、スターです。神の栄光を輝かせる世の光であり、暗い世界を明るく照らす星だから、文字どおりスターです。そんな私たちが、世の光として主の光を輝かせないで済ませていい場所など、世界のどこにもありません。そもそも私たちの生活は、神さまの前に丸裸です。つねに神さまを恐れる前提で生きているならば、人前でつねに神の栄光を現すよい振る舞いをすることなど、まったく難しくないことになります。
 ただ、こんなことを言っている私も、実はついこの間まで、そんなの理想論だ、と、心のどこかで思って、言いたくてもなかなか口に出せないでいました。しかし、このたび、金先生ご夫妻がいらっしゃり、ひと月にわたってお交わりをしたことをとおして、私の考えは完全に変わりました。どこを取っても主の光を輝かせる、そういう生き方はほんとうにできるのか! 驚きはやがて、確信に変わりました。私もまだまだですが、少しでも、つねに世の光として輝く生き方を実践していけるように祈っていこうと願うゆえんです。
 サタンは、私たちの光を輝かないように妨げます。世的な生き方を諦めるな、肉的な生き方はいいぞ、霊的な生き方はダサいぞ、ささやきつづけて洗脳しにかかります。しかし「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハ1:5)サタンはイエスさまにすでに、完全に敗北しているのです。だが、まだ負けていないかのように私たちをだます力はまだ残っています。いや、それどころか、サタンの方がイエスさまより強いという、偽りをまだまだ私たちに吹き込み、そのとおりだとばかりに私たちに振る舞わせる力さえまだ持っています。サタンを侮ってはなりません。イエスさまが完全に勝利してくださったことを、つねに宣言する必要があります。
 「when」それは、神の時です。エッサイにとっては、ダビデをおつかいにやった時でしかありませんでした。しかし神の霊はダビデを奮い立たせ、おつかいの時を、戦いの時に変えられました。ダビデはこのとき、「いや、私は単に届け物をして、兄たちの安否を父に伝えるために来ただけですから・・・・・・」とは言いませんでした。ゴリヤテに戦って勝利したらどうなるかを兵士たちに聞いて回り、ついにはサウルに、闘わせてくださいと直訴しました。
 神との交わりに生きる人は、神の導きを自分の事情や感情よりも優先させます。ヨハネの黙示録21章8節に、「臆病な人は、火と硫黄の燃える池」に投げ込まれる、つまり、地獄で永遠に滅びる、という意味のことが語られていて、ああ、私はクリスチャンのくせに、臆病だから、地獄に落ちるのかしら、と思ったりしていないでしょうか?
 もしそうならば、今日この瞬間から考えを変えましょう。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊とを与えてくださいました。」(Ⅱテモテ1:7)聖霊に満たされるとは、イエスさまに満たされ、父なる神さまに満たされることです。ものすごい力に満たされ、かぎりない愛に満たされ、それでいて品性に満ちた慎みが伴います。何かを怖がっているならば、それは古い人です。それはイエスさまとともに十字架につけられました。いまや力と愛と慎みの霊なるイエス・キリストの御霊なる聖霊さまが、私のうちに生きています。このことをつねに、確信をもって宣言するならば、恐れは逃げ去ります。大いなる力をもって人を愛せるようになり、しかしそれでいて、暑苦しいような押しつけがましさとは無縁の、魅力的な人になれます。それでこそ神の人です。
 こういう人は大胆です。神の導きとあらば、自分のこだわりや常識にとらわれないで動けるようになります。しかしそれは傍若無人ということではなく、つねに周りの徳を立てながらの言動として実を結びます。まさに離れ業、それこそ「神業」です。ともかく、私たちは聖霊が臨む時、力を受けて、必ずその証し人となり(使1:8)、あらゆる戦いに勝利を体験します。その「時」に従って生きるために、つねに御霊の満たしの中で生きるものとしていただきましょう。
 最後に結論、「what」、それは「主の戦い」です(47)。私たちは主の栄光を現す生き方をするために、あらゆる努力を傾けるのです。ただし、それは、私たちが自分自身をキリストに明け渡すところからすべては始まります。主の戦いは自分の頑張りでできるものではありません。自分の頑張りに主の御力の助けをいただこうとしてもいけません。主に明け渡し、主が私を用いて戦ってくださる、この境地に至れるように、祈っていただきたいのです。
 私たちは何において戦っていますでしょうか? 私たちの目の前に立ち塞がっているものはなんでしょうか? その背後にあるサタンの存在を、私たちは見極め、主がそのサタンと戦い、勝利してくださるにおいて、私たちは自分を明け渡しているでしょうか? ダビデにできていたように、それこそ、ダビデが主とひとつになっていたように、私たちも主とひとつにしていただくならば、主が私たちを用いて、その悪しき存在に勝利してくださいます。

筑波福音基督教会2025年12月28日_今高一紀牧師「王なるイエス(君王耶穌)」日本語/北京語

2025.12.28 柏栄光教会 10時日本語礼拝

2025年12月28日日曜日

クリスマスイブに見た夢 2025-12-24

 



クリスマスイブに見た夢 2025-12-24

まったりと温泉に浸かり 隣では妻の
高イビキが聞こえる幸せ・・・ ホッ

成田ビューホテルでクリスマスイブの
一夜を家族と過ごし 目を覚ました
AM2時25分・・・

昨日の疲れと ベッドの寝心地の良さで
昨日は 2度目の風呂を楽しみにしつつも
うっかり うっとり 7時半にはいつしか
寝てしまっていた そしてまた変な夢を見た
のである・・・

其れは
親しみ深く話す老婆二人の姿から始まった

一人は おぼろげな童顔に 大昔 幼い頃に
遊んでいた 佐藤洋子さんからぁ〜〜 と
思った(今はまったく連想できないが・・・)

そんな温和に話している老婆が あるお店の
前で言い争っては突然に喧嘩を始めて 
モノお振りかざしては大暴れし始めるのである

其処に私が 通りがかり 意味不明に話し始めた
二人の話を ただ 納得するように聞いてあげると
二人はやっと落ち着く始めて 堤防先の小さな
灯台の方へと一人は自転車を押し もう一人は
寄り添うように歩いて行くのである

海の水飛沫の音がして 灯台の光がクルリとこちらを
照らす
すると突然に暗闇から 紺色のセーラー服の女学生が
二人 現れて 老婆と対比するように優しい顔で
反対へと歩いて行くのである

妻のイビキが 船の汽笛のように鳴り響く
ポォー ぽぉー
そして 打ち潮のように ガァー ガァー と

それて目が覚めた


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2025年12月27日土曜日

鷲敷キリスト教会2025年12月26日「主イエスから目を離さないで」へブル人への手紙12章1~3節 (田口愛子師)

栗ヶ沢バプテスト教会礼拝2025年12月21日「クリスマス礼拝」木村一充牧師(ボイスプログ)

 


2025年12月21日 

栗ヶ沢バプテスト教会礼拝

メッセンジャー 木村一充牧師

20251221c1
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韓国の信仰の友より2025年12月22日・23日・24日・25日・26日・何時も有難う御座います。

 


韓国の信仰の友より2025年12月22日・23日・24日・25日・26日・何時も有難う御座います。

2025年12月22日

列王記上9章黙想:二度目の御声
神殿の飾りつけが終わり、黄金色の栄光がエルサレムの稜線を満たすとき、神はもう一度、ソロモンの夜の中へと歩み入られます。ギブオンでの最初の出会いが、胸躍る青年の夢だったのなら、今日のご訪問は、成熟した魂へ向けられた厳粛でありながらも、いとおしい愛の警告です。神は、華麗な杉の柱よりも、その内に宿る一人の中心を、さらに深く見つめておられます。
「わたしは、あなたの祈りと、あなたがわたしの前に願った願いを聞いた」(3)。このみことばは、ひやりとするほど美しい。私たちの祈りが虚空に散る叫びではなく、宇宙の主権者に届く静かな息づかいであることを、確かにしてくださるからです。しかし、主の約束は標本のように固まった遺物ではありません。それは生きて息づく川の流れのようで、私たちがそのみことばの水路に沿って歩むことをやめるなら、豊かさはいつでも渇きへと変わり得るのだと、厳しく告げます。
ソロモンが献げたのは、きらめく石と金でした。けれども主が求められたのは、「あなたが心を全くし、正しくして、わたしの前に歩むこと」でした(4)。主は祝福を約束しつつ、その祝福がとどまる場所を問われます。私たちが積み上げた業績の城壁がどれほど高くても、その中心から神への純粋な畏れが失われるなら、それは結局、「ことわざとなり、笑いもの」となってしまうのです(7)。その警告が、なぜか胸の深いところを切り裂きます。
今朝、私は自分の心の神殿の門柱を、そっと撫でてみます。神に献げた献身という名のもとに、実は自分の王国を固めようとしたことはなかっただろうか。主は、華やかな「カブルの地」の町々よりも(13)、名もなくひざまずき、従う子らと共に歩むことを喜ばれます。冷たい夜明けの空気を裂いて聞こえてくる、その御声に耳を澄ませます。最も眩しい成功の頂でこそ、私たちは最もへりくだった心で、主の御名を呼ばなければなりません。私たちの人生が、崩れた城壁の破片ではなく、いつまでも燃え続ける聖なる灯となりますように、そう願わずにはいられません。

2025年12月23日

列王記上 10章の黙想:ソロモンに学べ!
砂漠の荒い砂埃を払いながらエルサレムの城門に入ったシェバの女王。彼女の華やかな行列の後ろには、金や香料よりも重い「難問」(1節)が隠されていました。人生の神秘を前に突き当たった切実な難問たちは、ソロモンの前に至って、ようやく穏やかなさざ波のように解け始めました。王の答えは、単なる機知ではなく暗闇を照らす光であり、冷たい論理ではなく魂が歩むべき道でした。
女王は息をのみました。目の前に広がる精巧な食卓や廷臣たちの秩序ある服装(5節)よりも彼女を圧倒したのは、そのすべての豊かさを貫く巨大な知恵の源でした。「幸いなことでしょう。あなたの部下たちは。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる彼らは」(8節)。知恵が人間の有能さを証明する道具を超えて、創造主の栄光を投影するとき、初めて賛辞は人を通り抜け、神へと回帰します。
私たちは毎日、シェバの行列のように、世の華やかな証拠を収集しようと躍起になります。純金やびゃくだん木で人生の柱を立て、目に見える可視的な成就によって存在を証明しようとします。しかし、女王が告白したように、私たちが目撃する世の華やかさは、「その半分も語られていなかった」(7節)本質の影にすぎません。
真の知恵は、一年に運び込まれる「金六百六十六タラント」(14節)の重さにあるのではありません。それは、騒がしい黄金色の騒音が静まった場所に訪れる深い平穏であり、「正義と公義を行わせる」(9節)主の慈しみ深い御心の中に留まる謙卑さです。今日、私たちの人生が誰かの行き詰まった問いへの答えとなり、結局のところ「あなたの神、主がほめたたえられますように」(9節)という告白を引き出す、清らかな風景となることを切に願います。

2025年12月24日

列王記上11章黙想:福音の蝶番がゆるむとき
ソロモンの崩れは、稲妻のように突き刺さった罪ではありませんでした。むしろそれは、絹のように柔らかな妥協でした。人間味あふれる「これくらいなら」という言葉が、心の蝶番をゆるめていき、愛という名のぬくもりが、いつの間にか神を押しのけていったのです。聖書は静かに、しかし断固として告げます。「ソロモンの心は…彼の神、主に全き心ではなかった」(4)。その“不完全さ”は一度に起こったのではなく、湿り気がじわじわと木を腐らせるように、信仰を内側から侵食していく破壊でした。崩れたのは王座ではなく、中心でした。
始まりは、ほんの小さな一歩でした。一歩は小さく見えます。けれども小さな歩みが繰り返されると道となり、道はやがて、方向を決めてしまいます。高き所は、最初から壮麗な神殿ではありませんでした。石を一つ置き、また一つ積むうちに、エルサレムの栄光のかたわらで、異なる香りが立ちのぼっていったのです。「ソロモンは…高き所を築いた」(7)。炎のように燃えていた知恵は、小さな容認の灰の上で、少しずつ光を失っていきました。
福音宣教も同じです。巨大な反対が宣教を阻むのではなく、私たちの心に潜む「その程度なら」という妥協が、道を塞ぎます。みことばを握るより体面を握り、祈りを先延ばしにして忙しさを信仰だと取り違え、人を得るために真理を薄く削ってしまう。そうして小さな妥協が積み重なると、いつか私たちは、十字架の単純さで語れなくなります。世が福音を薄めるのではない。私たちの内なる“高き所”が、福音をかすませるのです。
それでも神は、引き裂きながらも断ち切られません。「わたしは必ずこの王国をあなたから引き裂き、あなたのしもべに与える。しかし…ダビデのために」(11-13)。さばきの刃先にも、約束の光は残ります。今朝、主は問われます。私の心の蝶番は、どこでゆるんでいるのか。小さな妥協を悔い改めるその瞬間、福音の道は再び開かれます。神へと向き直る一歩は、崩れた王国よりも大きな、新しい道の始まりです。

2025年12月25日

列王記上12章黙想:政治の不安が偶像を生み出すとき
列王記上12章は、「国が二つに裂けた日」の記録である以前に、一人の恐れがどのように礼拝を変え、共同体の心臓を揺さぶっていくのかを映し出す鏡です。レハブアムの言葉は荒く、民の肩に載せられたくびきはいっそう重くなりました(14)。ひと言が刃となって、長く積もっていた嘆きが一気に噴き出します。「イスラエルよ、自分の天幕へ帰れ」(16)。その叫びは反逆の合図というより、ついに聞かれなかった心の悲鳴でした。
しかし、より深い亀裂は北で始まります。ヤロブアムは町々を築き、王座を固く据えようとします(25)。けれども彼の夜は眠りません。民がエルサレムへ上って行けば、心が再び奪われるのではないか。その恐れが押し寄せてくるのです(27)。恐れはいつも、「合理的な代案」という衣をまといます。遠くへ行くな、ここで十分だ。もっと楽に、もっと安全に。そうして彼は金の子牛を二つ立て、こう言います。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの国から連れ上ったあなたの神だ」(28)。政治の不安が礼拝を組み替え、権力の計算が神を“製造”します。政治的な欲望と恐れが、神を「扱える大きさ」へと縮め、投げ捨てるとき、偶像は生まれるのです。
神は「兄弟と戦ってはならない」と言って、彼らを止められました(24)。心が揺れるとき、私たちには「代わりの神」を立ててしまう癖があります。信仰の道を短くし、十字架の道を迂回させる甘い近道が、思いのほか早く私たちの内側を占領します。主よ、私の恐れが礼拝を変えてしまわないようにしてください。便利さが真理の代わりにならないようにしてください。今日、飼い葉桶に伏してくださったイエスの十字架へと私の心の向きを、もう一度、まっすぐに向け直してください。

2025年12月26日

列王記上 13章の黙想:温かな偽り
権力を守るために築き上げられたベテルの祭壇、そこから立ち上る炎は、神が喜ばれる香りではありませんでした。その不浄な煙の中へ、ユダから来た一人の「神の人」が歩み入ります。「祭壇よ、祭壇よ」(2節)。彼の叫びに、無機質な石たちが先に反応して祭壇は裂け、灰が崩れ落ちます(5節)。憤怒して差し伸べられたヤロブアムの手は、そのまま麻痺して固まってしまいました(4節)。絶対権力の鋭い手さえも、御言葉の威厳の前では、一瞬にして枯れた木の枝のように無力化するだけです。
しかし、真の霊的戦いは、華やかな祭壇の前ではなく、孤独な使命の終わりに始まりました。事役を終えた彼を待ち受けていたのは、敵の脅威ではなく、老預言者の「温かな偽り」でした。「そこではパンも食べず、水も飲んではならない」(9節)。主のこの至厳な命令は、命よりも重い錨(いかり)でしたが、「私もあなたと同じ預言者だ」(18節)という親しげな囁きに、張り詰めていた魂の糸は力なく緩んでしまいます。
従順とは、壮大な決断以前に、細やかな方向を最後まで守り抜く正直な呼吸です。温かな食卓の上のパンは香ばしかったものの、その香りの裏側には、使命を蝕む微細な亀裂が隠されていました。使命者の耳を塞ぐのは、荒れ狂う嵐ではなく、時に「神の名」を借りて近づいてくる柔らかな妥協の声なのです。行くべきでない道で立ち止まり、手にしたその一切れのパンは、結局、非情なほどに冷ややかな死の代償となって返ってきました。
今日、私たちもまたベテルの分かれ道に立っています。世は常に慈愛に満ちた顔で妥協の食卓を整え、私たちを招きます。人の善意に満ちた声が、主の微かな細き声を遮ることのないよう、今朝、心の耳を清く洗い流したいと願います。たとえその道が飢えと孤独に満ちていても、最後まで歩み抜く者だけが、真の天の安息に辿り着けるからです。

感謝 ハレルヤ

Deo Gracias



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(韓国) 2025/7/27渋谷区ベテル教会&葦のかご教会夕拝「同じ血の流れる家族」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
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2025年最後の日曜日の締めワ!_葛飾福音キリスト教会へ「GOTO」へ

 



葛飾福音キリスト教会_明日のキリスト教会での出会いが楽しみです。2025_12_28_は「GOTOキリスト教会」




葛飾福音キリスト教会GOTOキリスト教会

明日2025年最後の日曜日にキリスト教会であなたの友と出会いましょう。

日付: 2025年12月28日(日)

「GOTOキリスト教会」葛飾福音キリスト教会

https://katsushika-fukuin-kirisuto.kyoukai.jp



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アーメン・アーメン・アーメン・アーメン・アーメン

아멘・아멘・아멘・아멘・아멘・아멘

阿們・阿們・阿們・阿們・阿們・阿們・阿們

JCM_2025/12/26第228話_勇士の宣教・ダニエルと3人の友だち(藤田桂子師)

2025年12月24日水曜日

孫の歯 (ハッていう話し)

 


孫の歯 (ハッていう話し)

我が家の初孫は 生まれた時から小さな歯があり
お医者様も驚いていた

昔 実家が漢方薬屋だった妻は健全に成長するようにと 
気を配って 幼児期 出産間もなくに漢方を飲ませることが
先祖伝来 我が家の常識となっていた

そんなわけあって 今回も孫に 漢方薬を飲ませようと
したのだが あっけなん大敗・・・
ものの数滴も飲まずに吐き出したのである
そして 赤子ながら しっかりと口を噤んでは飲もうとは
しないのである・・・

そんな話を 娘は職場で出会った漢方医師に話したのだと
いう

すると その漢方医師も驚いていたという
「産まれたてのの赤ちゃんは味覚が まだ成長していないから
味を認識しないはずなのに 味がわかるなんて凄いわネ〜〜」と

「産まれたて歯が有ったのも 驚きだけど 味覚もあったなんて!」と
驚いていたという

そんな孫も 今月には2歳を迎える
感謝


Hallelujah Christmas Eve



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2025年12月21日日曜日

坂本かおり牧師_葦のかご教会&ペテル教会2025年12月21日神様の出来事を見る人(ルカ2:8-21)

亀有キリスト福音教会_第三聖日礼拝_2025年12月21日

「神のご計画、クリスマス」(2025年12月21日)栗ヶ沢バプテスト教会

坂本兵部牧師2025年12月21日_葦のかご教会&ペテル教会_神が人になられた?!(フィリピ2:6-11)

札幌ガーデンチャーチ愛とキリスト」愛の到来、救いの到来 // ヨハネ1:1-5, 9-14, 18 Jake Schurder宣教師

ライフハウス東京2025/12/21..A COZY CHRISTMAS アットホームなクリスマス

12/21【バイリンガル(日本語音声ストーリー)】LIFEHOUSE KIDS ONLINE ~さいしょのくりすますのおくりもの

土浦グレイスキリスト教会の3分ブリッジメッセージ

「愛を教えるために来られたイエス様」 2025年 12月 21日 主日礼拝 寄居チャペル yorii chapel

サンライズ杉戸教会「王なる主、救い主へのまことの礼拝」マタイ2:1~12金子辰己雄牧師

つくばキリストの愛の教会20251221 クリスマス礼拝|星に導かれて、イエス様のもとへ/Guided by Star, To Jesus/별을 따라 예수님께로(日)...

千葉栄光教会 3部礼拝 2025 12 21

2025年12月21日土浦グレイスキリスト教会のクリスマス記念特別礼拝ー『救い主が来られた。』

TOLCC いのちの木キリスト教会2025_12_21_金子辰己雄牧師

純福音船橋愛隣教会2025_12_21_私の上に主の御霊がおられる。(ルカ4:16-21) 金昌民牧師

2025.12.21 柏栄光教会 10時日本語礼拝

アドベント4週 2025年12月21日

 

「GOTOキリスト教会」今日はキャロリングもあるよ



アドベント4週 2025年12月21日

寒さが 静けさに 対比して 雨音ばかりが
戸を叩く 聖日・・・

4本目のキャンドルに炎の温もりを迎える
慈愛の涙のように 主の香りを感じ 
うつら うつら と目覚めの時が肩を揺さぶる

安らぎに 平安が 優しく会釈(えしゃく)しては
首を垂れて お辞儀をする

「アドナイ・エレ(Adonai-Jireh)」
(主は備えてくださる)

「マドルガーダ(madrugada)」
あなたに ふさわしい 明け方を・・・

珈琲の香りが 部屋に満ちて
闇は静かに解けて(ほどけて)ゆく

「デオ グラシアス (Deo gratias)」
(主に感謝を)

アーメン

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●写真をクイックして頂くと音声プログに繋がります。 (韓国)オリュン教会2025/12/07「平安はどこから?」 能瀬 熙至 伝道師(日本語/韓国語)https://youtu.be/uKuhGSMi8rg?si=7jqPNuyf-NJpsMNj

(韓国)オリュン教会2025/11/30「荒野で叫ぶ者がいる!」 能瀬 熙至 伝道師(日本語/韓国語)https://youtu.be/Htm5kHMFZ7A?si=RTxbWJGuyubSevVg
(韓国)オリュン教会2025/11/23「キリストの証人として」 能瀬 熙至 伝道師(日本語/韓国語)https://youtu.be/hHjfVUEs_3Q?si=IF8uU3EUWSGVCiMk
(韓国)オリュン教会2025/11/16「罪を殺さなければ」 能瀬 熙至 伝道師(日本語/韓国語)https://youtu.be/QdPyuVZ9WoY?si=J3SQjeymU1tULco7
(韓国) 2025/11/02オリュン教会日本語礼拝「惨めな私が」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)https://youtu.be/K240qM7vWAk?si=HyNSs8YFHZ75PXPg
(韓国) 2025/10/19オリュン教会日本語礼拝「祈りの姿勢とは?」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/HBHaW-Nejnk?si=u0XD9jGbph0txdmT

(韓国) 2025/10/5オリュン教会日本語礼拝「安息日を聖とする」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/uYUtAIygqhs?si=1EpANs6AOBE6DhwM


(韓国) 2025/9/7オリュン教会日本語礼拝「私の立つ土台」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/OqnQ_uW51iM?si=1n-v0_bOCv46vV9z

(韓国) 2025/8/31オリュン教会日本語礼拝「ゴールへと突き進め」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/-i-GShoKn38?si=2hEsQD0EeXiC_FKv

2025/8/24オリュン教会日本語礼拝(韓国)「心は燃えていたではないか?」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/YFCusdywyQo?si=i3CoDEyaucxlJKKW

2025/8/3オリュン教会日本語礼拝(韓国)「主の忍耐」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/tTv8lS8d7vM?si=kmHdrlbXcxkroKA3

2025/8/10オリュン教会日本語礼拝(韓国)「5つのソラ④」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/HZtxip8Uq9A?si=GQnLR3taErjm312d

2025/7/20オリュン教会日本語礼拝(韓国)「5つのソラ③」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/UfYZKNqrZ0E?si=Ft34Rfhcbffk_DBS

2025/7/13オリュン教会日本語礼拝(韓国)「5つのソラ②」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/lYIxHIrZwNI?si=AwWrKot-dMyk3aHB

2025/7/6オリュン教会日本語礼拝(韓国)「5つのソラ①」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/YP1fMM2v1tA?si=QT9-l4wAYGcztuMJ

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(韓国) 2025/6/15オリュン教会日本語礼拝「あなたを孤児にはしない」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/6/8オリュン教会日本語礼拝「聖霊により生き返れ」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/6/1オリュン教会日本語礼拝「主はあなたを喜ぶ」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/tzlJjVrDJtc?si=V0-YWv-_f3ICZc-S

(韓国) 2025/5/25オリュン教会日本語礼拝「結びついた友」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
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栄光在主アーメン  栄光在主アーメン  栄光在主アーメン 栄光在主アーメン 栄光在主アーメン
ハレルヤ 할렐루야
ハレルヤ 할렐루야 ハレルヤ 할렐루야 ハレルヤ 할렐루야 ハレルヤ할렐루야
 Amen阿們 Amen阿們 Amen阿們 Amen阿們Amen阿們Amen阿們


鷲敷キリスト教会2025年12月20日(清原 修 師)「主の向かわれる場所」ルカの福音書2章8~20節

2025年12月20日土曜日

韓国の信仰の友より2025年12月15日・16日・17日・18日・19日・いつも有難う御座います。

 



韓国の信仰の友より2025年12月15日・16日・17日・18日・19日・いつも有難う御座います。

2025年12月15日

列王記上 8章の黙想:祈りは霧灯(フォグランプ)である
今日、私の魂の視線が留まる場所は、ソロモンが生涯の願いを込めて捧げた聖所です。「祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(11) 最も輝かしい光は、時に深い雲という衣をまとって訪れます。人間が造り上げた最も完璧な建築物でさえ、創造主の聖さを収めるにはあまりに狭い器であることを悟る瞬間、ようやく膝をついて告白する真の畏敬が始まります。
ソロモンは「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。私が建てたこの宮など、なおさらです」と告白します(27)。しかし神は、その巨大な宇宙の御座をしばし脇に置き、貧しい魂が差し出した狭い膝の間に住まうことを決められました。
聖殿は冷たい石で築かれた城壁ではなく、砕かれた心たちが集まり、天を仰ぎ見る「至高の慕わしさの場所」です。聖殿は傷ついた人々が天を仰ぎ見るための方向標識であり、迷子になった祈りがついに帰り着く魂の住所です(29-30)。神は天におられるご自身の住まいから聞き、赦してくださいます(30)。
ソロモンは、人間のあらゆる悲劇を祈りの文章で綴り合わせます。戦争での敗北(33)、天が閉ざされて雨が降らない干ばつ(35)、災いや病、疫病の苦しみ(37)まで。彼は人生の最も暗い路地ごとに、祈りの灯火を掲げます。「それぞれが自分の悩みを知り、この宮に向かって両手を広げて祈るなら」(38)、主が聞き、赦し、報いてくださるよう願い求めます。聖殿は、人間の限界が神の無限さと出会う神秘的な交差点なのです。
私たちの人生も、時には乾いた荒野のようであり、崩れた城壁のように荒廃することがあります。どんなに抗っても心の天が開かない日もあります。しかし、閉ざされた天は必ず再び開き、恵みの甘雨が降り注ぎます。恵みとは、往々にして私たちが「終わり」と呼ぶその場所から始まるものです。
今日、あなたの心という聖殿にも、その神秘的な雲が満ち溢れることを願っています。たとえ目の前が見えないほど行き詰まった霧の中であっても、その霧はあなたを飲み込もうとする闇ではなく、あなたを抱きしめようとする神の温かな息吹かもしれません。祈りは、霧灯(フォグランプ)なのです。

2025年12月16日

列王記上 第5章 黙想:人を活かす指導者
平和は、突然天から降ってくる奇跡ではありません。主がまず戦いの埃を静め、人々の呼吸を整えられた後に初めて訪れる、尊い静けさです。四方が静かになったとき、ソロモンの心は、石の上に石を重ねる人間の家ではなく、神の御名を置く場所—すなわち、私たちの魂が立ち返るべき方向を定める家(神殿)への聖なる熱望で満たされます。
遠いツロからヒラムが送ったレバノン杉は、単なる木材ではありません。それは、魂の共鳴のように、レバノン山脈の涼しい風と深い沈黙を抱き、エルサレムの夜明けを迎えます。その芳香と木目は遥かな道を経て、私の人生の谷間にたどり着く恵み、あたかも祈りへの応答のように。私たちの内から生え育ったのではない木が、恵みという名の川に乗って届くこと—神の働きは常に「受け入れること」から始まります。
ソロモンは、その与えられたものを粗末に扱わないために、賢明な秩序と人員(労力)を確立していきます(14-16)。切り出す逞しい手、石を整える誠実な手、黙々と運ぶ数多くの足取り、名もなき監督たちの目が神殿の基礎を形作ります。神殿は、壮大さという結果として建てられる前に、各人に与えられた責任の重さによって築かれていくのです。
しかし、この聖なる準備の陰りもまた、はっきりと見えます。ソロモンは、三万人の役務者をレバノンに、伐採の労役のため交代で送ります(13-14)。ある者の汗は喜びの歌となり、ある者の汗は強制された重荷となるかもしれません。「聖なる目的が人間としての尊厳を軽んじるなら、神殿の礎はすでにひび割れを抱えることになる」―主の家を建てるという口実で、主の働きをするという名目で、誰かの人生を消耗させてはいないか、絶えず顧みる必要があります。
主が与えてくださった平安の上で(4)、今日も私たちは、それぞれの場所で小さな神殿を建てています。ひと言の親切な言葉、一度の心からの謝罪、一人の名を長く呼び続ける清らかな祈りがあるとき、神殿はより美しくなります。レバノン杉のようにかぐわしく、大きな石のように正直に、考えの異なる人々までもが共に主の御名のもとに留まるその場所(5)、そここそが人が人を活かす真の礼拝の場でしょう。

2025年12月17日

列王記上6章黙想:私の人生の奥座敷の主人
ソロモンの神殿建設は、音もなく綴られる一編の静かな詩のようでした。石を切り出す石切り場では、のみを打つ槌の音や鉄の響きが喧しかったはずですが、いざ聖なる神殿の現場では、いかなる道具の音も聞こえませんでした。石はすでに神殿の外で完全に整えられて運ばれ、現場にはただ聖なる組み合わされる秩序だけが残されていたからです(7)。神の家は騒音によって建てられるのではありません。最も熱き沈黙の祈りが、その家を建てていくのです。私たちの人生もまた、そうでなければなりません。性格の角や傷の破片は、祈りの涙という石切り場であらかじめ削り取られ、世の人々の前では、ただ精製された成熟のキリスト者として、静かに組み合わされるべきなのです。
神殿の内側は、レバノンの涼やかな香りを湛えた杉の板で覆われ、その上はさらに純金で被われ、聖なる光を放っていました。しかし、黄金の輝きよりもまばゆいのは、その空間を満たす「みことば」の響きです。壮大な建設が進む現場の真ん中で、神は突如として問われます。「もしあなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての戒めを守って、それに歩むなら、……」(12)。神は華やかな外観に感動される方ではありません。心が聖なる従順によって空しくされるとき、初めてそこに住まわれます。神殿の真の重みは、至聖所の壁の厚さではなく、その内に秘められた従順の深さによって決まるのです。
至聖所は暗く狭い空間のように見えますが、二つのケルビムが翼を広げてその沈黙を覆うとき、世界で最も広い場所となります(27)。人の視線が届かない場所、私の魂の最も深い奥座敷。神は、人生の外延が広がることよりも、私の心の最も深い奥まった一間を、ご自身の住まいとして望まれます。「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てない」(13)。
今日、あなたの人生の奥座敷の主人は誰でしょうか。外見を飾る金メッキよりも、内密な従順の香りが漂う場所、その深い至聖所から今日という一日を始められるよう、切に願います。

2025年12月18日

列王記 上 7章 黙想:ヤキンとボアズの間で
ソロモンの王宮がレバノンの杉의 涼やかな香りをまとい、その壮麗な姿を現すとき、神殿の前庭にはついに二本の巨大な柱が据えられ、静かに息を吹き返します。その名は「ヤキン」と「ボアズ」(21節)。冷ややかな青銅の質感に刻まれたのは、単なる金属の模様ではありません。それは「主が立てられる」という真実な約束であり、「主に力がある」という宣言的な告白なのです。
私たちは時として、揺れ動く世界の中で、自らの力や知識という筋肉を頼りに踏み止まろうともがきます。しかし、神殿の入り口にそびえ立つこの二本の柱은、沈黙の中で雄弁に語りかけます。人生の重荷に耐えるのは、自分の腕力ではなく、自分を支えてくださる見えない主の御手であることを。自ら築き上げた金字塔が、蜃気楼のように崩れ去るのではないかと不安で夜も眠れないとき、私たちは神殿の門口にあるこの二本の柱を思い起こすべきです。そして、主の力によって主が建ててくださる、柱のような人生を願い、祈らなければなりません。
神殿の庭に置かれた巨大な「鋳物の海」(23節)に、夕映えが差し込みます。赤く燃えていた今日一日の煩悶も、尖った不安も、その静かな水面の下へとゆっくりと沈んでいきます。鋳物の海の清い水が祭司たちの汚れを洗い流すように、「彼が立てられる」という約束の柱の傍らで、私たちの乱れた魂も再び清らかに整えられていきます。
私の人生の宮は、決して私自身の脆い基礎の上に立っているのではありません。今日、私は自分自身の柱ではなく、主が立てられた恩寵の柱の間に立って安息します。夕焼けよりも深い平安が、青銅よりも揺るぎない慰めが、私の魂に留まるこ
とお祈ります。

2025年12月19日

列王記上 8章の黙想:祈りは霧灯(フォグランプ)である
今日、私の魂の視線が留まる場所は、ソロモンが生涯の願いを込めて捧げた聖所です。「祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(11) 最も輝かしい光は、時に深い雲という衣をまとって訪れます。人間が造り上げた最も完璧な建築物でさえ、創造主の聖さを収めるにはあまりに狭い器であることを悟る瞬間、ようやく膝をついて告白する真の畏敬が始まります。
ソロモンは「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。私が建てたこの宮など、なおさらです」と告白します(27)。しかし神は、その巨大な宇宙の御座をしばし脇に置き、貧しい魂が差し出した狭い膝の間に住まうことを決められました。
聖殿は冷たい石で築かれた城壁ではなく、砕かれた心たちが集まり、天を仰ぎ見る「至高の慕わしさの場所」です。聖殿は傷ついた人々が天を仰ぎ見るための方向標識であり、迷子になった祈りがついに帰り着く魂の住所です(29-30)。神は天におられるご自身の住まいから聞き、赦してくださいます(30)。
ソロモンは、人間のあらゆる悲劇を祈りの文章で綴り合わせます。戦争での敗北(33)、天が閉ざされて雨が降らない干ばつ(35)、災いや病、疫病の苦しみ(37)まで。彼は人生の最も暗い路地ごとに、祈りの灯火を掲げます。「それぞれが自分の悩みを知り、この宮に向かって両手を広げて祈るなら」(38)、主が聞き、赦し、報いてくださるよう願い求めます。聖殿は、人間の限界が神の無限さと出会う神秘的な交差点なのです。
私たちの人生も、時には乾いた荒野のようであり、崩れた城壁のように荒廃することがあります。どんなに抗っても心の天が開かない日もあります。しかし、閉ざされた天は必ず再び開き、恵みの甘雨が降り注ぎます。恵みとは、往々にして私たちが「終わり」と呼ぶその場所から始まるものです。
今日、あなたの心という聖殿にも、その神秘的な雲が満ち溢れることを願っています。たとえ目の前が見えないほど行き詰まった霧の中であっても、その霧はあなたを飲み込もうとする闇ではなく、あなたを抱きしめようとする神の温かな息吹かもしれません。祈りは、霧灯(フォグランプ)なのです。
感謝 ハレルヤ

阿們・아멘・アーメン



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(韓国) 2025/7/27渋谷区ベテル教会&葦のかご教会夕拝「同じ血の流れる家族」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://www.youtube.com/live/55RSDdrDkmg?si=L6iJK_kG2jFWaTb7


(韓国) 2025/6/15オリュン教会日本語礼拝「あなたを孤児にはしない」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/6HuqOJQMzZs?si=yM9WcNd9Wn2wZ9Qd


(韓国) 2025/6/8オリュン教会日本語礼拝「聖霊により生き返れ」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/W6m70es1_GM?si=Ebye5qBtaEWKTqW0


(韓国) 2025/6/1オリュン教会日本語礼拝「主はあなたを喜ぶ」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/tzlJjVrDJtc?si=V0-YWv-_f3ICZc-S


(韓国) 2025/5/25オリュン教会日本語礼拝「結びついた友」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/7qVCTJxIOko?si=kTuBnuaw-FVdCFDv


(韓国) 2025/5/18オリュン教会日本語礼拝「結婚と夫婦」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/W-ih-O22bmQ?si=VCiIIg0owd1jb4G7


(韓国) 2025/5/4オリュン教会日本語礼拝「親と子の関係」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/L9in8blLOzQ?si=Bo0W06vBo02Kgj0a


(韓国) 2025/4/13オリュン教会日本語礼拝「私の為の十字架」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/koN9EF16LZU?si=sqvaf70X3UNaRULc


(韓国) 2025/4/6オリュン教会日本語礼拝「聖餐に与る恵み」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/X_LkE6FgyOI?si=Po2kMdnLMUQGXuNs


(韓国) 2025/3/23オリュン教会日本語礼拝「宮清め」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/QG0CQwQra2w?si=G0sVpjO9MYaP0wsv


(韓国) 2025/3/9オリュン教会日本語礼拝「心を裂いて」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/Km2BL-S3oEM?si=AM84n-lafuojHOZa


(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
http://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075994


【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
https://www.youtube.com/watch?v=NjUEbhpxJYE&feature=youtu.be


【賛美】いつもいつまでも
Seekers (Always
andForever
항상영원히까지
https://www.youtube.com/watch?v=MsfDBkdK3XQ&feature=youtu.be

葛飾福音キリスト教会_明日2025/12/21アドベントも4週目_主の宮に「GOTOキリスト教会」へ.

 

葛飾福音キリスト教会_明日のキリスト教会での出会いが楽しみです。2025_12_21_は「GOTOキリスト教会」






葛飾福音キリスト教会GOTOキリスト教会

明日2025/12/21はキリスト教会は アドベント4週目に入ります。

4本キャンドルに炎が灯り十字架に揺らぎます

アドベント は、キリスト教西方教会、聖公会においてイエス・キリストの降誕を待ち
望む期間のことである。日本語では特に指定された言葉はなく、待降節、降臨節、ま
たは待誕節とよぶ。 教派によって名称が異なり、主にローマ・カトリック教会や福音
主義教会では待降節、聖公会では降臨節と呼ぶ。 ウィキペディア

日付: 2025年11月30日(日) – 2025年12月24日(水)

「GOTOキリスト教会」葛飾福音キリスト教会

https://katsushika-fukuin-kirisuto.kyoukai.jp



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第一水戸バプテスト教会2025年12月16日「信仰の成長」ヨハネの福音書4章43節~54節(武井俊孝牧牧師)(ボイスプログ)

 2025年12月16日第一水戸バプテスト教会_「信仰の成長 」ヨハネの福音書4章43節~54節(武井俊孝牧牧師)(ボイスプログ)

https://www.mitofbbc.com/2025/12/16/信仰の成長/

聖書箇所:ヨハネの福音書443節~54

メッセージ題目:信仰の成長

 私たちはクリスチャンです。そんな私たちは、あなたたちクリスチャンとはどういう人ですか? と聞かれたら、イエスさまを信じる人です、と答えるでしょう。しかし、だとすると、私たちは「イエスさまを信じる」とはどういうことなのか、ちゃんとわかったうえで「信じている」のでしょうか?

 たとえば、むかし開催されたような、大きな会場を借り切っての伝道集会、あのような集会では最後になると、「イエスさまを信じたい方は前に出てきてください!」と招かれ、前に出ていって、イエスさまを主と信じ受け入れる祈りを導いていただくわけです。

しかし、あれだけたくさんの人が信仰を持ったはずなのに、その後、日本の教会は何か大きな変化が起こったでしょうか? いや、それ以前に、そのような集会を境に、その信じ受け入れたはずの人の生活は根本から変わったでしょうか? もちろん、お救いになったかどうかは神さまの領域であって、人がとやかく言うべきことではありません。しかし、そのときイエスさまを信じ受け入れたという人々が、それ以降、キリストを主と信じ従う生き方ができていたならば、その後日本の教会はどれほどよい方向に変化していただろうか、と考えると、少し残念な思いがします。

私たちは、イエスさまを信じていることが、その生き方、その存在の旗印と言えるでしょう。しかし、それならば、その「信じている」ことの中身が問われていくことになります。来週はクリスマスです。私たちの礼拝にも、まだイエスさまとともに歩む歩みをしていると言えない方々がいらっしゃることを考えましょう。そのような方々も、イエスさまを主と信じ従う生き方をしていただきたいと、私たちは願いませんでしょうか? その備えという意味でも、今日、みことばに耳を傾けてまいりましょう。

今日の本文のテーマを要約いたしますと、それは「信仰の成長」です。イエスさまにすがった王室の役人が、イエスさまと対話を交わしている間の、そのわずかな時間に、どのように信仰が成長していったか、私たちは見ることができます。ともに見てまいります。

43節、イエスさまはサマリアのスカルを去って、ガリラヤに行かれました。イエスさまの故郷です。そのガリラヤはどういう場所かというと、続く43節にあるとおりです。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」。イエスさまご自身がそうおっしゃいました。

それは、彼らが不信仰であったからです。彼らは、幼い日からのイエスさまを知っていました。そんなイエスさまが神の国をお語りになることに、いまひとつぴんときていませんでした。あいつは大工の息子じゃないか。あいつの家族も知ってるぞ。そんなのが、あんなことが言えるのかい。

要するに、故郷の人たちはイエスさまのことを神の子と信じることができなかったのでした。しかし、それでもガリラヤの人たちはイエスさまを歓迎しました。それは45節にあるとおりです。エルサレムで祭りがあり、彼らもその祭りに参加していたとき、イエスさまが祭りの間にエルサレムで行われたことを見ていたからです。

イエスさまがお語りになったことでは、イエスさまを神の子、主と信じず、しかし、しるしには関心がある。これは、イエスさまに対する信仰の初歩の段階です。論より証拠、ということばがありますが、多くの人はどうも、何か奇跡を見ることによってはじめて、そこに神さまが働いていることをようやく信じるのではないでしょうか。そういう人にとっては、福音書の多くの紙幅を割いて書かれているイエスさまのメッセージは、ありがたい教え、難しい教え、くらいのものにしかなりません。

イエスさまのもとには多くの群衆がついていきました。驚くべきみわざを見て、体験することができるからです。こんにちのあらゆるテーマパークのアトラクション、映像コンテンツも真っ青の体験です。しかし、それを体験するだけして、普段の生活に戻ったらまたもとどおりになってしまうならば、それはイエスさまのみわざを、単なる「ショー」のレベルでしか消化していないことになります。

イエスさまに対する信仰を働かせるということは、そういう幼稚なレベルでとどまることではありません。もし、そんなレベルのものが信仰と言うに値するならば、もし仮に、イエスさまの行なっておられるみわざが、私たち人間の目に、それが神のみわざだと認められないならば、別にイエスさまのことを信じなくてもいいことになります。しかし、そういうレベルのものを、果たして信仰と呼んでいいのでしょうか?

 そのような中で、イエスさまのもとを訪ねてきた王室の役人を見てみると、イエスさまに対する信仰を働かせるとはどういうことかを学ぶことができます。王室の役人はイエスさまがいらしたと聞いて、イエスさまのもとにやってまいりました。

 シチュエーションがよく似たお話が、マタイの福音書の8章や、ルカの福音書の7章に登場します。すると、このヨハネの福音書に登場する王室の役人は、実はその百人隊長のことだったのか、と思えてきます。しかし、その両者は、イエスさまに対する信仰の働かせ方をイエスさまがどう評価したかという点において、決定的な違いがあります。そのお話までこのメッセージに引用するとかなり複雑になるので、今日はそうしません。興味のある方はマタイ8章、ルカ7章をあとでお読みいただきたいですが、今日はそれらと対照させず、このヨハネ4章の本文のみでまいります。

 王室の役人は、イエスさまのもとにやってきました。彼の息子が重い病気にかかっていました。イエスさま、下ってきて息子をいやしてください。

 まず彼は、イエスさまのところに行きました。そして、イエスさまに直接、自分のところにいらしてくださいとお願いしました。イエスさまを癒やし主と信じての大胆な行動です。ヘブル人への手紙416節に、「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。いやいや、神さまに近づくなど畏れ多い、と思うのではなく、神さま、イエスさま、助けてください、と、大胆に御座に近づく、この信仰をイエスさまは喜んでくださいます。

 王室の役人もその信仰でイエスさまに近づきました。しかし、それでもイエスさまは、その信仰の「質(しつ)」を問題にされました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」イエスさまのお返事は、切実な願いをしてくる彼の前に、なんとも素っ気ないと思われるでしょうか? しかし、考えていただきたいのです。もし仮に、イエスさまが彼の信仰の質を取り扱われることなく、そのまま、わかりました、と、行ってお癒しになった、子どもは治った、めでたしめでたし、それで終わってしまったならば、この役人はその程度にしかイエスさまを信じていなかったことになり、彼の信仰はそれ以上成長が見込めないものになりかねなかったわけです。

 ですからイエスさまは、祈り求める者の信仰の質を問題にされます。あなたは、わたしがわざを行えば信じるのですか? わざを行わないことが父のみこころゆえ、わざを行わなかったとしたら、あなたは信じないのですか? それは、わたしがすべての主権者なる神であることを、ほんとうに信じていることになるのですか?

 そうです。イエスさまは私たちの願うようにみわざを行われようと行われまいと、主です。主権者です。癒し主です。私たちはまず、イエスさまとはそういうお方なのだと認めなければなりません。

 役人はこのイエスさまのおことばを聞きました。すると役人は、49節のように言いました。「子どもが死なないうちに」と言っています。この子どもはすぐにも死ぬかもしれない病にかかっていました。そんな人を前にして、いや、あなたは死ぬことを受け入れて死になさい、とおっしゃるようなお方では決してない、イエスさま、あなたはいのちの主です、役人の信仰はここではっきりしました。

イエスさまはいのちの主であると認める、しるしと不思議を行われるから信じるのではない、ゆえに、私の愛する息子のいのちもあなたの御手のうちにあるから、子どもを癒やすのはあなたのご主権による、そして、あなたの御心にかなっている・・・・・・役人の信仰は、イエスさまへの理解が伴っていました。見たら信じるという、幼稚なレベルではもはやありません。

 その、彼の信仰をお確かめになったイエスさまは、彼にチャレンジを与えられます。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」これは、イエスさまは下っていかない、と宣言されたということ、しかし、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、と宣言されたということです。これは、彼の願った方法にはよらなくても、彼の願いどおりに、いのちの主なる主権者として、そして愛なるお方として、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、ということです。

 私たちは、イエスさまは癒やし主です、と信じ告白します。しかし、その信仰の中身というものが、問題にされはしないでしょうか? あの、アラムのナアマン将軍は、自分のツァラアトはエリシャに出てきてもらって、患部の上で何やら手を動かしてもらえば治る、と思っていたのに、ヨルダン川に7回からだを浸せ、とは、と、おかんむりになりましたが、それにナアマンがこだわったら、神さまは確実にナアマンを癒やされる方法を示しておられるのに、ナアマンは治らないことになってしまいます。

 同じことで、神さまのみこころが示されているならば、それを信じることです。信じているならば、ああ、神さま、おっしゃるとおりです、と、そのとおりにからだが動いてしかるべきです。この役人の場合も、イエスさまがおっしゃるとおりにここでイエスさまと別れ、家に向かいました。イエスさまは神として、そのおことばをもって息子をいやしてくださった、その信仰は、せっかくのイエスさまと別れて家に帰るという行動に結びついたのです。「いやです! どうしても家に来てほしいんです!」とすがりつくことが、彼のすべきこと、イエスさまのお喜びになる信仰ではなかったのです。イエスさまのおっしゃるとおりに行動する、その結果、彼の息子は癒やされました。

 私たちはしばしば、イエスさまに対する信仰というものを誤解しています。目の前に何か問題があったらそれを解決してくださいとか、必要があったらそれをくださいとか、求めるものは何でもくださる、それが信仰だと思っているでしょう。

たしかに「求めなさい、そうすれば与えられます」とか、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と、イエスさまはおっしゃっています。しかし、結構私たちは、そのみことばを表面的にしか理解していないのではないでしょうか? どうせ求めても与えられないかも、と、どこかで投げやりになり、真剣に求めるということができていないのではないでしょうか? それでは与えられるものも与えられません。それにその姿勢は、イエスさまが「与えられます」と約束してくださっている、そのみことばに対する信仰を充分に働かせていないことになります。

 私たちはたしかに、イエスさまがご覧になったら,不信仰としか言えなかったり、信仰はあっても幼稚なレベルにとどまっているようなものだったりする、そういうときもあります。

しかしイエスさまは、そんな私たちの姿そのままに、私たちを受け入れ、私たちと語り合ってくださいます。役人はイエスさまと語り合っているうちに、イエスさまを信じることとはイエスさまの主権を受け入れること、イエスさまのみことばのとおりに行動することという理解が伴いました。

でも、役人は律法主義的に、無理やり信じたのではありません。イエスさまの優しいおことば、決然としたおことばを語られるその姿に、そうだ、信じて一歩踏み出そう、イエスさまは絶対、みわざを行なってくださる、と、力強く歩み出したのでした。その信仰の成長は、イエスさまとの対話をとおしてなされたものです。

イエスさまはおっしゃいます。あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる人たちは幸いです。もちろん私たちは、この肉眼でイエスさまのお姿を見ることはできません。しかし、それだけではなく、イエスさまが目に見えるように御業を行なってくだされば信じる、というレベルにとどまらず、いつ、どんなときでも、イエスさまを主として生きる生き方ができるようにしていただきたいと願うものです。それでも私たちは、いざというときには目に見えるしるしのようなものに頼りたくなり、そうでなければイエスさまなど知らないような生き方をしてしまいがちな、そんなものかもしれません。

それでもイエスさまは、私たちにつきあってくださいます。私たちと語り合いたい、信仰を育ててあげたいと、私たちがみもとに近づくのを待っていてくださいます。いま、イエスさまのもとに、祈りをもって進み出てまいりましょう。イエスさまが私たちと語り合ってくださるならば、私たちは成長します。その成長する喜びを、体験させていただきましょう。


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