韓国の信仰の友より2025年4月25日・26日・28日・29日・30日・有難う御座います。
2025年4月25日
誰があなたを憐れむだろうか。
"誰があなたを憐れむだろうか" (エレ15:5). 時々、宇宙に一人浮かんでいるような、ひとり残されたような気持ちになることがあります。「もう私を心配してくれる人もいないんだ」という思いが、心の奥深くに染み込んでくることがあります。耐えられないほど寂しく、自分さえも自分自身を無視したくなったような日。「誰があなたを憐れむだろうか?」この言葉は一見冷たく断絶の言葉のようですが、その深淵には崩れた愛から噴出した深い叫びが隠されています。幾千回も手を差し伸べ、忍耐し、涙で警告された神様の傷ついた心です。ついに立ち返らない民に向かって、疲れた息遣いで吐き出された神様の声です。主の冷静さの向こうには、傷ついた愛があります。あまりにも痛いために、ついに背を向けるしかなかった...その最後の愛の言葉がまさにこれなのです。「誰があなたを憐れむだろうか。」あまりにも遠くに来てしまって、誰も私を探さないだろうと思える瞬間に聞こえてくるこの御言葉。呪いのように聞こえる恐ろしい御言葉ですが、不思議と心を痛めるだけではないのは、その中に、すでに私を憐れんでくださった主の涙と恋しさがそのまま染み込んでいるからでしょう。
2025年4月26日
私はそんなに悪いことをしましたか?
「私たちは、神にどのような悪や罪を犯したというのですか」(エレミヤ書16章10節)。「なぜ私が?」という問いは、時代を超えて人類が繰り返してきた最も古い言い訳なのかもしれません。問い詰めるようなこの言葉は、まるで埃をかぶった鏡の前で「なぜ私の顔はこんなにぼやけているのか」と責める声のように聞こえます。罪はときに濃い霧のように私たちの目を覆い、自分自身の姿さえも見えなくしてしまいます。神の律法から離れておきながら、なおも「私たちは悪くない」と訴えるその姿に、私たち自身の影が重なります。鈍くなった良心、繰り返される無視、慣れの中で消えていった神への畏れ。それは小さなひび割れのように始まり、やがて心の奥深くを崩してしまう裂け目となって現れます。神の叱責は、凍りついた湖畔に差し込む春の最初の日差しのようです。痛みを伴いながらも温かい、壊れることを願う愛の光です。だからこそ、「私たちはどんな罪を犯したのか」と問うのではなく、「主よ、私の内にどんな過ちがあるのでしょうか」と問いかける一日となりますようにと願います。まだ開けていない心の引き出しをひとつずつ開けていくとき、その中に積もっていた埃まみれの真実と向き合うこと、それこそが回復への扉を開く鍵となるのです。そして、その扉の向こうでは、恵みの光が静かに私たちを待っていてくださるのです。
2025年4月28日
心の秘密
「人の心はよろずのものよりも偽りがあり、はなはだしく悪に染まっている」(エレ17:9)。この言葉は人間の内面の複雑な風景を一行で見通しています。深く暗い川の流れのように、心はその深さを知ることのできない神秘的な空間です。朝霧のように立ち上る感情、嵐のように押し寄せる思考。時には自分の心さえも見知らぬものと感じることがあります。自分が何を望んでいるのか、自分が何者なのか迷うような迷路のような旅の中で、私たちは彷徨います。花畑のような善き意図の下に、利己心と高慢の黒い手が隠れています。バラが棘を持つように、私たちの心も善と悪が共存する逆説の地です。鏡の前に立つ私たちは、どれほど多くの仮面をつけているでしょうか?他人だけでなく、自分自身に対しても正直になれず、過ちを隠し、失敗を否定しながら生きています。これがエレミヤの言う「偽り」の姿ではないでしょうか?しかしこの腐敗した心の真ん中からエレミヤは叫びます。「主よ、私を癒してください。そうすれば、私は癒されます。」(14) 自分では治すことのできない心の病を創造主に委ねる切実な祈りです。自分の闇と向き合うとき、初めて光が差し込む隙間が生まれます。濁った心が静まるとき、その底に隠された宝物が現れ始めます。心は私たちの最大の弱点であり、同時に最大の可能性でもあります。どんなに腐敗していても、その中には新たに花開く種が眠っています。神の真実を認め、癒しを求める謙遜さこそが、真の変化の出発点なのです。
2025年4月29日
永遠の笑いものになった人々
「彼らの地を驚きと永遠の笑いものにした」(エレミヤ書18章16節)。この一節は、心を突き刺すような痛みを伴って迫ってきます。かつて神に選ばれた民が、どうして「永遠の笑いもの」となってしまったのでしょうか。エレミヤ書18章は、なじみ深い情景の中に、神の主権と人間の運命を重く描き出しています。陶器師の作業台――そこは、創造と裁きが交差する場所です。主の手によって器の形は変わり、ときには壊されて再び土に戻されます。人間の運命が創造主の手の中にあることを、預言者は悟ったのです。壊され、再び形づくられる過程は苦しいものですが、その中には深い愛の意図が込められています。抗うことのできない器の運命です。しかし、人間はどうでしょうか。「私たちは自分の計画どおりに行おうとする」(12節)愚かにも自分の道を固執し、神のご計画よりも自分の計画を、創造主の知恵よりも自分の知恵を優先させます。その結果、「彼らの地は荒廃し、永遠の笑いものになる」という裁きを受けたのです。笑いとは本来、喜びを表すものであったはずです。しかし今、その笑いは棘のように刺さる嘲りの声となってしまいました。それでも、陶器師の家では壊れた器も再び形づくることができます。「永遠の笑いもの」とされた「永遠」も、創造主の愛の前では打ち砕かれるのです。悔い改めの涙が乾ききった地を潤すとき、嘲りの笑い声は、喜びの笑い声へと変わるでしょう。私たちには陶器師の手を拒む自由がありますが、同時に、その手に自分を委ねる自由もあることを、どうか忘れないでください。
2025年4月30日
トフェトのようになるだろう
「トフェトのようになるだろう」(エレミヤ書19章13節)。トフェト――その名は時の中に忘れ去られた過去のように思えるかもしれませんが、神の記憶の中では、今も嘆きが響く谷として残されています。かつてそこでは、子どもたちの泣き声が、いけにえとして捧げられる宗教的な虐殺の場で響いていました。人々はそれを「礼拝」と呼び、「信仰」だと考えていましたが、神の目には、血で染まった罪の谷にすぎませんでした。「トフェトのようになるだろう」という預言は、単なる裁きの言葉ではなく、忘却への警告でもあります。聖書は今、私たちに問いかけています。「あなたは何を追い求め、誰のために生きているのか?」神なき繁栄は長くは続かず、見かけだけの成功は心の堕落を覆い隠すことはできません。神の臨在がない祭壇は、もはや聖なるものではなく、その礼拝は空虚な外見にすぎません。トフェトは、遠い昔の場所だけではありません。私たちの内にも、声を潜めた罪、鈍くなった良心、妥協に慣れた心という谷が存在しています。神はそのようなトフェトを暴き出し、「もうそこに戻るな」と、十字架の道を指し示されます。悔い改めの涙がその地を潤すとき、神はその場所からも新しいいのちを生み出されるのです。
謝謝 ハレルヤ

(韓国) 2025/4/13オリュン教会日本語礼拝「私の為の十字架」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/koN9EF16LZU?si=sqvaf70X3UNaRULc
(韓国) 2025/4/6オリュン教会日本語礼拝「聖餐に与る恵み」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/X_LkE6FgyOI?si=Po2kMdnLMUQGXuNs
(韓国) 2025/3/23オリュン教会日本語礼拝「宮清め」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/QG0CQwQra2w?si=G0sVpjO9MYaP0wsv
(韓国) 2025/3/9オリュン教会日本語礼拝「心を裂いて」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/Km2BL-S3oEM?si=AM84n-lafuojHOZa
(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
http://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075994
【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
https://www.youtube.com/watch?v=NjUEbhpxJYE&feature=youtu.be
【賛美】いつもいつまでも
Seekers (Always
andForever
항상영원히까지
https://www.youtube.com/watch?v=MsfDBkdK3XQ&feature=youtu.be
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