2025年4月24日木曜日

韓国の信仰の友より 2025年4月11日・12日・14日・17日・18日・19日・21日・22日・23日・24日・いつも有難うございます。

 




韓国の信仰の友より 2025年4月11日・12日・14日・17日・18日・19日・21日・22日・23日・24日・いつも有難うございます。

2025年4月11日

心の包皮を取り去れ!
「心の包皮を取り去れ」(エレミヤ4:4)。聖書で自らを啓示される神様は、華やかな外見や忙しい宗教的行為に関心がありません。その方の視線はいつも外側ではなく内側、形ではなく中心に向けられています。だから近づいてきて静かにささやかれます。「オルラル・レバブケム!」心の硬くなった心臓の皮を、癒えないまま残しておいた内面の外皮を剥ぎ取りなさいと言われます。この言葉は叱る声ではなく、私の中で硬くなった苦痛と冷淡さの皮を優しく撫でる手のぬくもりです。傷つかないように積み上げた無関心、見て見ぬふりをするための体面、自分を守るためにかぶった自尊心、そのすべての厚い皮を一つ一つ取り去ることを望まれます。剥がす作業には痛みが伴います。血が出て、悪化することもあります。しかし、その痛みの向こうには息吹のように温かい愛が待っています。傷を包む慈悲の手が待っています。本当の私、飾りのない心で神様の前に立つ場所、そここそが回復の始まりであり、再び生きる命の場所です。
4月12日
人々は「主を拒んで言う。主は何もなさらない、我々に災いが臨むはずがない」(エレミヤ5:12)。「主は何もなさらない」(エン・アドナイ)は「主は存在しない」という断言です。これは単なる疑いではなく、存在自体を否定する反逆の言葉であり、契約を拒絶する宣言です。だから「災いもない」と言うのです。神がいなければ裁きもないという、便利で巧妙な論理です。まるで太陽が雲の後ろに隠れたからといって太陽がないと信じる子どものように、彼らは神の沈黙を不在と誤解しています。しかし、雨が降らないからといって空がないわけではなく、罰がすぐに下らないからといって裁き主がいないわけでもありません。穏やかな海を見て嵐が来ないだろうと思う船乗りのように、彼らは一時的な平和を永遠の安全と勘違いしています。エレミヤの時代、人々は神の忍耐を弱さとして、慈悲を無関心として誤解しました。今日、私たちはどうでしょうか?神の沈黙の中で私たちは何を聞いているでしょうか?彼の不在の確信でしょうか、それとも立ち返る機会と捉えているでしょうか。

4月14日 

聞こえない愛の警告
神は時に、やさしくささやかれます。しかし、私たちがその呼びかけに耳を傾けないとき、神は涙をもって警告されるのです。「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ」(エレ6:8)。この言葉は叱責ではなく、愛の叫びです。倒れることをご存知の神が、それを止めたい一心で、必死に呼びかけておられます。けれども、閉ざされた心には、その愛さえも重荷に感じられてしまいます。だから神は、もう叫ぶことをやめようと決意されるのです。「さもないと、わたしはお前を見捨て…」それは単なる裁きの宣言ではなく、愛の終わりにこぼれる溜息なのです。愛しているのに、もうとどまれない。去っていく父の足音。その悲しみを感じ取ることができたなら、私たちの歩みも、きっと変わるはずです。今日、この警告の前に立ち止まります。神が私を見限られる前に、私が心を向け直すことができますように。神の訓戒の中には、まだ回復の扉が開かれているから。

4月17日

「わが嘆きはいやしがたく、わが心はうちに悩む」(エレ8:18)。生きていると、一言さえも重く感じる日があります。胸の中で何かが崩れ落ち、その崩壊が深いため息となってゆっくりと流れ出します。誰かに見られなくても、誰かに聞かれなくても、ただ心が濡れていく日。孤独は言葉よりも深く、寂しさは沈黙よりも重いのです。エレミヤはそのような心を抱えて生きていました。彼は自分だけの悩みではなく、この地の病んだ魂と神の痛みを抱きしめ、涙で祈った人でした。「わが心はうちに悩む」。彼のこの一言には、おそらく多くの人々の嘆きが込められていたのかもしれません。彼の心臓は他者の罪と傷の前で病んでいました。彼の苦痛は個人的なものを超えて、共同体全体に向けた哀しみでした。そのような悲しみは私たちの人生の中にも、心の中にも、異なる形で存在しているでしょう。誰もが自分だけのエレミヤ8章18節を持って生きています。「どのように慰めを得ることができるだろうか…」この問いは、時に慰め自体になることもあります。悲しみを完全に理解できなくても、その悲しみをあるがままに認める瞬間、私たちは慰めの敷居に足を踏み入れることになります。エレミヤは自分の傷を隠しませんでした。その悲しみは終止符ではありませんでした。それは読点であり、神の約束へとつながる旅でした。「あなたがたに対する私の思いは平安であり、未来と希望である」(エレミヤ29:11)人の言葉では慰めにならない日、神の沈黙が鮮明に感じられる日には、エレミヤを思い起こしてみましょう。「主よ、私の心は病んでおります。ただ主のみが私の慰めです。」

4月18日

涙の預言者、エレミヤの嘆き
「どうか、わたしの頭が水となり、わたしの目が涙の泉となるように」(エレ9章1節)。
涙の預言者、エレミヤの深い嘆きが、心の奥深くに響いてきます。このひと言には、神から離れていく民への激しい悲しみと、胸を裂くような愛がそのまま込められています。涙さえも枯れ果てた時代。偽りが真理を装い、罪が日常と化したその地で、彼は泣きたかったのです。いや、泣かずにはいられなかったのです。何もできない無力さゆえに、ますます心が痛みました。民の崩れた生活を見つめながら、彼が感じたその嘆きは、今の私たちにも決して他人事ではありません。神の御心を見失っていくこの時代の中で、いつの間にか鈍くなっていく自分の心に気づきます。冷笑と無関心が美徳のように思われるこの時代において、「嘆き」は次第に遠い感情になっていきます。しかし神は今もなお、嘆きの中にある祝福を信じる者を探しておられます。涙をもって神の心を抱く者たちを待ち望んでおられるのです。乾いた魂の上に、もう一度、恵みの涙が静かに注がれますように。エレミヤのように、神の心を抱いて涙する日々が、もう一度始まりますように。そう願いながら、静かに祈ります。

4月19日

比類なき方
「あなたのような方はおられません」(エレミヤ10:6)というヘブライ語「エイン・カモカ」(אֵין כָּמוֹךָ)の告白は、神の唯一性を宣言するものです。これは、主と偶像の間に比較そのものが不可能であることを強調しています。タルシシュの銀やウファズの金で作られた偶像は外見が華やかでも、単に「職人の手による作品」に過ぎません。一方、主は「メレク・ハゴイム」―諸国の王です。偶像は感覚器官があっても機能せず、一カ所に固定されていますが、主は言葉によって天地を創造し、宇宙全体に臨在し、弱者の叫びに応答されます。青や紫の華やかな衣をまとった偶像は結局は朽ち崩れる物質ですが、主の栄光は永遠であり、その知恵は測り知れません。今日私たちが追い求める成功、富、名誉、権力などの現代的な偶像も、結局は私たちの欲望が投影されたものに過ぎません。「主よ、あなたのような方はおられません」という告白が、唇だけでなく人生において現れる真実の告白となることを願います。 

4月21日

叫び──しかし届かない
「彼らがその苦しみの中でわたしに叫ぶとき、わたしは彼らに耳を傾けない。」(エレ 11:14)。人生には、ときに本当に切実な瞬間があります。誰にも自分の声が届かず、心の中の叫びすらも無視されているように感じるとき、人はついに神に向かって叫びを上げます。聖書はその叫びを「ツァーアク(za'aq)」と表現しています。ヘブライ語の za'aq は、ただ大声を出すという意味ではありません。胸を引き裂くような慟哭、涙さえも枯れた場所から、最後の息のように漏れる叫びです。しかし神は、その叫びに耳を傾けないと仰るのです。苦しみの中でようやく絞り出した一言を無視されるなんて──最初は、あまりにも冷たく思えました。けれど、その言葉をじっと見つめているうちに、こんな思いが込み上げてきました。「これまでの叫びは、本当に心からのものだったのだろうか。」「神様、この苦しみからどうか救ってください。」 そう願うその言葉の中に、神への愛や信頼が本当にあっただろうか。ただ状況から逃れたくて、少し楽になればまた自分の道へ戻っていく、そんな自分ではなかったかと、思い当たるのです。神は、叫びが聞こえないのではありません。むしろ、心からの叫びを、長い間待っておられるお方です。その御耳は常に開かれていますが、その御心は、真実を求めておられるのです。人生が崩れ落ちるようなある日、わたしたちは再び叫びを上げるかもしれません。そのとき、その声がただ苦しみから抜け出したいという願いではなく、神に立ち返る真実な叫びとなりますように。神の御腕に抱かれたいという、心からの告白でありますように。そのような za'aq なら、神は決して顔を背けられないのです。

4月22日

「悪しき者の道が栄えるのはなぜですか…」(エレミヤ書 12:1)人生の歩みの中で、心が最も揺れる時は、おそらく世の不公平さに直面する時でしょう。誠実に生きてきた自分が損をし、不正を行う者がかえって成功する現実に、誰もが心のどこかで悔しさを覚えるものです。「神様、なぜあの人はうまくいくのですか?」エレミヤの問いは、現代を生きる私たちの叫びでもあります。しかし、他人の繁栄を羨んでばかりいると、自分に与えられた道を見失ってしまいます。比べることをやめ、自分に与えられた歩みを静かに進んでいく時、私たちは世の基準では計れない、神のうちにある特別な喜びと平安に出会うのです。神は一時的な成功よりも、私たちの心を形作り、魂を磨くことを大切にされるお方です。ですから、どうか落胆しないでください。たとえ見えなくても、感じられなくても、神は今も私たちのそばにおられ、その歩みを見つめておられます。本当の繁栄は、そのように静かに訪れるのです。

4月23日

ヒョウの斑点と人間の本性
「ヒョウがその斑点を消すことができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう」(エレミヤ書13章23節)。非常に強烈な比喩です。ヒョウの斑点は、ただの模様ではなく、その存在の本質、すなわちアイデンティティであると言えるでしょう。ヒョウに斑点を消せと言うのは、ヒョウであることをやめろと言うようなものです。聖書は、私たちの内にある罪の性質もこれと同じだと語っています。私たちは、意志や決意によって心の闇を取り除こうと努力します。変わるためにあらゆる手段を尽くします。しかし、聖書はそれが不可能であると言います。罪は皮膚に付いた汚れではなく、存在の奥深くまで染み込んだ色素のようなものです。どれほど努力しても、同じ罪につまずき、同じ過ちを繰り返しては後悔する人生です。やがて私たちは落胆し、自分を責め、こう嘆くのです。「私の中に深く根付いたこの罪の習慣を、どうすればよいのか……」しかし、この御言葉は絶望で終わっているわけではありません。神は、私たちの本性そのものを変えることのできるお方です。私たちがすべてを主に委ねるとき、神は働き始められます。恵みが私たちに注がれ、神は私たちを「修理」するのではなく、キリストにあって「新しく」してくださるのです。私たちを変えるのは、自分の力ではなく、神の恵みなのです。

4月24日

ヒョウの斑点と人間の本性
「ヒョウがその斑点を消すことができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう」(エレミヤ書13章23節)。非常に強烈な比喩です。ヒョウの斑点は、ただの模様ではなく、その存在の本質、すなわちアイデンティティであると言えるでしょう。ヒョウに斑点を消せと言うのは、ヒョウであることをやめろと言うようなものです。聖書は、私たちの内にある罪の性質もこれと同じだと語っています。私たちは、意志や決意によって心の闇を取り除こうと努力します。変わるためにあらゆる手段を尽くします。しかし、聖書はそれが不可能であると言います。罪は皮膚に付いた汚れではなく、存在の奥深くまで染み込んだ色素のようなものです。どれほど努力しても、同じ罪につまずき、同じ過ちを繰り返しては後悔する人生です。やがて私たちは落胆し、自分を責め、こう嘆くのです。「私の中に深く根付いたこの罪の習慣を、どうすればよいのか……」しかし、この御言葉は絶望で終わっているわけではありません。神は、私たちの本性そのものを変えることのできるお方です。私たちがすべてを主に委ねるとき、神は働き始められます。恵みが私たちに注がれ、神は私たちを「修理」するのではなく、キリストにあって「新しく」してくださるのです。私たちを変えるのは、自分の力ではなく、神の恵みなのです。
謝謝 ハレルヤ


にほんブログ村 ブログブログへ



(韓国) 2025/4/13オリュン教会日本語礼拝「私の為の十字架」能瀬熙至伝道師((日本語/韓国語)
https://youtu.be/koN9EF16LZU?si=sqvaf70X3UNaRULc



(韓国) 2025/4/6オリュン教会日本語礼拝「聖餐に与る恵み」能瀬熙至伝道師(日本語/韓国語)
https://youtu.be/X_LkE6FgyOI?si=Po2kMdnLMUQGXuNs



(韓国) 2025/3/23オリュン教会日本語礼拝「宮清め」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/QG0CQwQra2w?si=G0sVpjO9MYaP0wsv



(韓国) 2025/3/9オリュン教会日本語礼拝「心を裂いて」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/Km2BL-S3oEM?si=AM84n-lafuojHOZa



(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
http://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075994



【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
https://www.youtube.com/watch?v=NjUEbhpxJYE&feature=youtu.be


【賛美】いつもいつまでも
Seekers (Always
andForever
항상영원히까지
https://www.youtube.com/watch?v=MsfDBkdK3XQ&feature=youtu.be

0 件のコメント:

コメントを投稿