韓国の信仰の友より2025年4月1日.・2日・3日・4日・7日・8日・9日・10日有難う御座います。
2025年4月1日
深い海を歩かせた方 夜空を横切る風のように、人生の道も予測できずに流れていきます。時には視界のきかない暗闇のようであり、時には果てしない荒野のようであり、時には荒れ狂う波にのまれる海のようです。足を踏み出すたびに恐れが襲いかかり、計り知れない波が行く手を遮ります。 しかし、聖書は語ります。神が私たちを「深い海を歩かせた」(イザヤ 63:13)と。イスラエルの民が紅海の前に立った時、彼らは不可能の壁に直面しました。後ろには迫りくる敵軍、前には渡ることのできない海。しかし、神は彼らを深い海の真ん中へと導かれました。水は裂かれ、海底が現れ、乾いた地のように道が開かれました。恐れの中でも一歩を踏み出すことができたのは、先に行かれるお方がいたからです。 私たちの人生も同じです。耐え難い苦しみ、解決できない問題、癒えない傷…人生には静かな道ばかりが与えられるわけではありません。時には、深く暗い海を渡らなければならないのです。しかし、どうか恐れないでください。風を裂き、紅海を分けられた主が、混沌の中でも私たちを支え、「馬が荒野で自由に走ってもつまずかないように」(13節)、私たちが深い海をも恐れずに歩めるようにしてくださいます。海を分けられたその御手が、今も私たちの手をしっかりと握っておられるのです。
2025年4月2日
怒らないでください。「主よ、あまりにも怒らないでください。罪を永遠に覚えないでください。」(イザヤ書64:9)私たちは時に過去の過ちや罪のために自分自身を責めながら生きています。まるで取り返しのつかない足跡のように、私たちの過ちは心の奥深くに刻まれ、神の前でさえ恥ずかしさを隠すことができません。今日の御言葉はまさにこのような人間の弱さの中から湧き出た切実な祈りです。神から離れて偶像を崇め、罪の道を歩んでいた者たちが再び神を求め、赦しを求めました。まるで子どもが父親に過ちを告白するように、神の怒りが永遠に留まらず、私たちの罪が終わりのない記憶として残らないことを願う切実な思いが込められています。私たちは神に失望を与え、また自分の弱さのために落胆することがあります。しかし、神の性質は怒りよりも慈悲が大きく、記憶よりも赦しが深いのです。私たちの罪を覚えておられず、むしろ新しい道へと導かれる神の前で、私たちは希望を持つことができます。この御言葉を黙想する時、罪の重さに押しつぶされるのではなく、神の恵みを見つめたいと願います。神は罪を永遠に覚えておられる方ではなく、悔い改める者を受け入れる父なのです。私たちがどんな過ちを犯したとしても、神の前に出て切に求める時、神は私たちを無視されません。むしろ愛をもって私たちを再び立ち上がらせ、新しい始まりを許してくださいます。今日この御言葉を心に刻み、神の赦しを完全に受け入れることを願います。そしてその赦しに力づけられ、再び勇敢に生きていくことを祈ります。
2025年4月3日
労苦が無駄にならないように「彼らの労苦はむだにならず、彼らの生み出すものが災いを受けることはない」(イザヤ書65:23)。イザヤ書65章は「新しい天と新しい地」についての約束で満ちています。神が創造されるその世界は、私たちのすべての涙をぬぐってくださる場所です。痛みや苦しみはもはや記憶されず、無駄な労苦も、実りを奪う災いもない完全な世界が広がります。しかし、私たちの現実は違います。私たちは種を蒔いても刈り取れず、心を込めて建てた家に住めない経験をします。汗と涙で築いた生活の基盤が洪水に流され、長い時間かけて育てた夢が一瞬で崩れる痛みを経験します。時には神に尋ねます。「私の労苦はなぜこんなに無駄に感じるのでしょうか?」イザヤの約束はその質問への応答です。この世界の不完全さの中でも、神は新しい世界を準備しておられます。そこでは私たちのすべての労苦が価値を認められ、すべての実りが完全に保存されます。人間の働きと創造の価値が完全に回復される場所、真の喜びと安息がある場所です。今日の私の労苦が時に無駄に感じられても、この約束を握りしめます。私が蒔いた種、私が結んだ関係、私が流した涙—これらすべてが決して無駄にならないという約束を。神の新しい創造の中で、すべての真の労苦は永遠の実りを結ぶでしょう。今日もこの約束を抱きしめて一歩踏み出します。私の手の労苦と心の情熱が無駄にならないことを信じながら、この不完全な世界の中でも新しい天と新しい地のしるしを植えていきます。
2025年4月4日
母の胸のような慰め子供の頃、風邪をひいて熱が高く出ていた時、必ず母の手が訪れてきました。熱く火照った額に母の冷たい手が触れると、その瞬間すべての痛みが和らいだように感じました。真夜中でも私の咳の音に眠れないでいても、母は少しも疲れた様子を見せず、背中をさすりながら「大丈夫よ、すぐに良くなるから」と静かにささやきました。その一言で不思議と心が安らぎ、再び眠りにつくことができた記憶があります。神様はこのようにおっしゃいました。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたがたを慰める。あなたがたはエルサレムで慰めを受ける」(イザヤ66:13)。神様は全能で高き方ですが、私たちに接する時は限りなく優しく思いやりがあります。まるで母親が病気の子供を世話するように、私たちを温かい手で包んでくださいます。「慰める」と訳されたヘブライ語の「ナハム」は、深い共感とともに心をなでさする意味を持っています。これは単に「大丈夫よ」と言うだけではなく、その痛みを共に感じ、抱きしめる慰めです。私たちはしばしば自分を強い存在だと勘違いしますが、現実はそうではありません。生きていく中で痛みを経験し、つまずき、時には涙を流すこともあります。そんな時、神様は優しい声でおっしゃいます。「大丈夫、わたしがあなたと共にいるから。」人間的な慰めは一瞬とどまって消えることがありますが、神様の慰めは心の奥深くに染み込み、私たちを完全に新しくします。聖書の中で神様は主に父親のイメージで現れますが、この節では母親の愛と世話で自らを表現されました。これは神様の愛が様々な側面を持っていることを示しています。母親の胸はいつでも帰れる場所です。神様もそうです。私たちの傷と恐れを知り、黙って抱きしめてくださる方です。その懐で休息を得て、再び力を取り戻すことができることを覚えて、今日も神様の胸を求める私たちです。
2025年4月7日
礼拝する者を求める「父はこのように礼拝する者を求めておられるからです」(ヨハネ4:23)。この御言葉は単なる宗教的な教えではありません。私たちを探し求める切なる思いが深く滲み込んだ神様の渇望です。神様は偉大な存在でありながらも、高く遠くにいるわけではありません。むしろ霊と真理をもって礼拝する一人の人を見つけるために、静かに近づいてこられます。毎日すれ違う何千もの顔の中から一人を見分ける喜びのように、神様は多くの人々の中から心からの一つの魂を探し求め、待っておられます。私たちはしばしば礼拝を私たちが神様にささげるものとしか考えません。しかし、この御言葉は逆のことを語っています。神様が先に私たちを探しておられると。まるで宝物を探すように、真珠を発見するように、神様は真実な心を求めておられます。都会の騒音の中で、仕事場のプレッシャーの中で、一人きりの孤独な瞬間の中で - 神様は探し続けておられます。礼拝は私が始めるものではなく、神様の探し求めに対する応答です。私の人生のすべての瞬間がこの対話の一部となり得ます。今日、あなたを探しておられる神様の眼差しを感じてみてください。そして自問してみてください。私はどのように応答しているだろうかと。
2025年4月8日
彼らを恐れるな私たちは時々、人々の中で自分が小さくなっていくような感覚を覚えます。一言で萎縮し、ちらりと向けられた視線に足を止めることもあります。そのような恐れはしばしば「彼ら」から始まります。彼らの評価、基準、反応…私はその中に自分を閉じ込めて生きてきました。「あなたは彼らを恐れてはならない」(エレ1:8)。これはエレミヤの時代を超えて、今日の私にも静かに聞こえてくる御言葉です。振り返ってみれば、私の人生における多くの諦めと沈黙は「彼ら」のせいでした。声が小さくなり、足を止めるその地点には、いつも他人の影がありました。しかし、この御言葉は私に問いかけます。本当に彼らはそれほど恐ろしい存在なのか?彼らの評価が私の存在価値を決めることができるのか?恐れは私が一人だと感じるとき、ゆっくりと心の中に芽生えます。しかし神様は言われます。「わたしはあなたと共にいて、あなたを救う。」この神様が私の味方であるという真理が、私を再び立ち上がらせます。たとえ小さく弱い私であっても、神様の手の中にいるとき、恐れは退きます。それが実体のない影であったことに気づき、その向こうに神様の視線が留まっていることを知るのです。「彼らのために恐れるな。」どんな視線よりも、どんな声よりも、この御言葉が私の人生の中心であると信じるからこそ、今日も再び立ち上がります。
2025年4月9日
灰汁で洗っても「灰汁で体を洗い、多くの石灰で洗っても、あなたの咎は私の前に染みとなって残る」(エレミヤ2:22)。灰汁で完全に洗い流したいもの、石灰できれいに清めたいものがあります。しかし、どれほど一生懸命磨いても消えないものがあります。人間の努力では決して消し去ることができないものがあります。それは神が診断された罪です。心の奥深くに刻まれたしみを消そうと、良いことをして埋め合わせようとし、瞑想や自己啓発で心を浄化しようと懸命に努力しますが、すべて無駄です。しかし、今日の御言葉は単に非難するものではなく、恵みを切望させる御言葉です。灰汁と石灰では消すことができませんが、神は消すことができます。人間の努力ではなく、恵みの流れだけが魂のしみを完全に洗い流すことができるのです。私たちがすべきことは、ただその恵みの流れの下に立つことです。受難週は私たちがその下に入りくぐることです。そのとき初めて、私たちは自分の力ではなく別のもの、十字架から解決策を見出します。灰汁で洗い、石灰で消そうとするよりも、神が注がれる祝福の恵みの雨を受けましょう。
2025年4月10日
憐れみの懐に抱かれて「わたしは憐れみ深い者であり、怒りをいつまでも持ち続けることはない」(エレミヤ3:12)。神なる父の深い心が込められたこの一言に、私の心を押しつぶしていた石ころが一つずつ静かに転がり落ちていきます。私たちはしばしば背を向け、心を閉ざし、遠い道へと旅立ちます。しかし、神は一度もその御顔を完全に背けられたことはありません。怒りよりも先に来る憐れみ、裁きよりも深い慈しみが、その御心には満ちています。「怒りを持ち続けない」というこの御言葉は、私たちがいつでも立ち返ることができるよう、神が道を開いておかれたという意味です。傷ついた心で膝をかがめるとき、神は駆け寄るように私たちを腕に抱きしめてくださいます。その懐は温かく、その声は優しく、その愛に終わりはありません。その憐れみは時間の制約を受けず、私たちの理解を超えています。「帰ってきなさい、わたしはあなたを待っている」と呼びかける主の御前で、心が熱くなります。私の魂の暗い隅々まで照らすその憐れみの光の下で、私は尽きることのない愛の懐に抱かれ、ついに安らぎを得るのです。
謝謝ハレルヤ

(韓国) 2025/4/6オリュン教会日本語礼拝「聖餐に与る恵み」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/X_LkE6FgyOI?si=-hAfJvo973vzgjr5
(韓国) 2025/3/23オリュン教会日本語礼拝「宮清め」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/QG0CQwQra2w?si=G0sVpjO9MYaP0wsv
(韓国) 2025/3/9オリュン教会日本語礼拝「心を裂いて」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/Km2BL-S3oEM?si=AM84n-lafuojHOZa
(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
http://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075994
【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
https://www.youtube.com/watch?v=NjUEbhpxJYE&feature=youtu.be
【賛美】いつもいつまでも
Seekers (AlwaysandForever
항상영원히까지
https://www.youtube.com/watch?v=MsfDBkdK3XQ&feature=youtu.be
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