韓国の信仰の友より2025年2月19日・20日・21日・24日・25日・26日・いつも有難う御座います。
2025年2月19日
「荒野の変化」
「荒野と乾いた地は喜び、砂漠はゆりのように花を咲かせて喜び楽しむ」(イザヤ35:1)。この宣言は単なる自然現象の描写ではなく、神様の救いのドラマの幕開けを告げるものです。ヘブライ語の「מִדְבָּר」(ミドバル、荒野)は出エジプトの記憶を呼び起こし、新しい救いの時代を予告しています。この救いは全人的な性格を持ちます。「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開かれ、足の不自由な者は鹿のように飛び跳ね、口の利けない者は喜び歌う」(5-6節)。肉体的な癒しと霊的な回復が不可分の関係で結びついています。これはメシアの時代の典型的なしるしとなるでしょう(参照:マタイ11:5)。特に注目すべきは「デレク・ハコデシュ」(聖なる道、8節)のイメージです。これは単なる物理的な通路ではなく、贖われた者たちのための恵みの大路です。この道は新しい出エジプトの旅路であり、同時に終末論的希望の象徴です。「彼らはシオンに到着し、とこしえの喜びを得、憂いと嘆きは消え去る」(10節)。この頂点となる讃歌は、現在の苦難と将来の栄光を劇的に対比させています。今の現実が荒野のように乾いていても、この聖なる道を通って、私たちは永遠の喜びへと進んでいくのです。
2025年2月20日
帝国の脅威の前で:沈黙で守る信仰
人生の中で、信仰が揺らぐ瞬間を経験したことがありますか?イザヤ書36章は、そのような危機の瞬間を生々しく示しています。エルサレムの城壁の前に立つアッシリアの高官ラブシャケ。彼の口から溢れ出る言葉は、どれほど尤もらしかったでしょうか?エジプトもあなた方を救うことができず、あなた方の神もあなた方を救うことができないだろう。しかし、我々と共にいるなら、救われるだろう(5-6, 14)。彼の甘い脅しは、今日、我々が聞く世の中の声と似ています。ヘブライ語の'בָּטַח'(バタフ)は、「信頼する」(7)という意味です。ラブシャケは巧みに、この信頼の対象を変えようとしました。神ではなく帝国を、信仰ではなく現実を、希望ではなく安全を選択しろと言うのです。しかし、ヒゼキヤの民は沈黙しました(21)。時には、黙って場所を守ることが、最も力強い信仰の表現になり得ます。彼らの沈黙は、神に対する信頼の別名でした。今日も、我々は選択の分かれ道に立っています。物質的な豊かさ、世の中での成功、当面の安全...こういったものが我々の信頼を揺るがす時、我々はどのような選択をするのでしょうか?時には、沈黙の中で神を信頼すること、それが最も力強い答えになり得るのです。
2025年2月21日
主よ、救い出してください。
「主よ、今こそ私たちをその手から救ってください」(イザヤ37:20)。紀元前701年、エルサレムの城壁の上に吹く風は冷たいものでした。世界帝国アッシリアのサン・ヘリブが率いる鉄の軍隊が城を包囲すると、都市には不安と恐怖が濃く漂いました。ラプサゲは嘲笑うように叫びました。"君たちが頼る神が果たしてこの強大なアッシリアの手から君たちを救い出すことができるだろうか? ヒスキヤの言葉に騙されるな! この嘲笑の前で、ヒスキヤ王は徹底した悔い改めと謙遜の象徴である「サク」(粗布)を着て神殿に進み、床に伏せました。両手は天に向けました。万軍の主よ、「主だけが天下万国の唯一の神です」(16節)。彼の声は震えましたが、信仰は揺るぎませんでした。その夜、風のように、エホバのマラーク(御使い)が敵陣を通り過ぎました。 夜明けとともに、18万5千人のアッシリアの兵士は冷たい死体で発見され、生き残った者たちは恐怖に怯えて逃げ出しました。危機の瞬間、ヒゼキヤは「テフィラ」(祈り)で答えられました。彼の選択は実にシンプルでした。 人の知恵や力ではなく、主だけを信頼したのです。アッシリアのような巨大な脅威が今も私たちのそばを取り囲んでいます。神の前にひれ伏して祈りましょう。今も生きておられる神の力は変わりません。
2025年2月24日
「聞かれる神様、見られる神様」
「わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た」(イザヤ書38:5)。時として、私たちは天に向かって叫ぶ祈りが空しく散っていくような感覚を覚えることがあります。しかし、イザヤ書のこの御言葉は、私たちのすべての祈りと涙を神様が見落とすことなく、聞き、見ておられるという驚くべき真理を宣言しています。ヒゼキヤの祈りは、単なる命の延長を求めるものではありませんでした。彼の涙には、果たせなかった使命への痛みと、神の国への切なる思いが込められていたことでしょう。神様は彼の祈りを「聞かれ」、彼の涙を「見られました」。この御言葉で使われているヘブライ語の表現には、単なる聴取や視覚的認識ではなく、注意深い傾聴と深い共感、そして応答される神様の温かい配慮が込められています。今日も数多くの祈りと涙が天に向かって注がれています。その中には私の祈りと涙もあります。ヒゼキヤの物語は私たちに確信を与えます。神様は今も私たちのわずかなうめきさえも見逃すことなく、私たちの祈りを聞き、涙を深く顧みられる方です。ですから、今日も大胆に神様の御座の前に進み出ましょう。私たちの祈りを聞かれ、私たちの涙をご覧になる神様が必ず応答してくださるはずです。
2025年2月25日
私たちの子孫の世代はあなたの選択にかかっています.
「わたしの生きている間は平安と堅固があるであろう。」(イザヤ書39:8)ヒゼキヤのこの言葉は、まるで鏡のように私たちの姿を映し出しているようです。死の影が差した時、ヒゼキヤは体と心を尽くして天に向かって叫びました。しかし、15年という時間を贈り物として受けた後、彼の心はどこへ向かったのか考えさせられます。バビロンの使者たちの前で華やかな宝物を誇示していた彼の姿、そしてそれに伴う警告の前で投げかけた「私の生きている間は何の問題もないだろう。平安であるだろう」という言葉は、人間の本性の一側面を赤裸々に表しているのではないでしょうか。私たちの人生もこれと異なることはないでしょう。人生が嵐の中を歩む時は切実な祈りが自然と出てきます。しかし、穏やかな港に船が着くと、あの切実だった心はどこかへ消えてしまい、主よりも自分が前に出てきます。しかし、私たちが下す選択の影響は「私の時代」で止まりません。まるで川の水が下流へ流れていくように、親の足跡は子どもの道となっていきます。ヒゼキヤの息子マナセがその証拠です。今日私たちが下す決断は、私たちの子どもたちの世代の地図を描いていくことです。真の平安は単に今この瞬間の安楽さではなく、永遠なるものとの深い交わりの中で訪れる魂の静けさです。私たちに与えられた今日の選択が、次の世代にはどのような実を結ぶでしょうか?この問いを胸に抱き、今日も新しい朝を迎えます。
2025年2月26日
心に届く言葉
「エルサレムの心に届くように語りなさい」(イザ40:2)。ある言葉は通り過ぎていきますが、ある言葉は魂の奥深くに宿り、人生を変えていきます。時には、たった一言が人生を揺さぶる強い響きをもたらします。「心に届く」というのは、単なる感情的な慰めではありません。ヘブライ語の「レブ」(心)は、人間存在の中心、意志と知性と感情が集まる場所を指します。神様は頭だけで理解する言葉ではなく、人生全体を変える言葉を伝えるようにと命じられます。捕囚生活の中にあったエルサレムの民には、一時的な慰めではなく、存在を揺り動かす言葉が必要でした。彼らの人格の中心が崩れていたとき、神様は「あなたのとがはすでに赦された」と宣言されました。これは長い冬の終わりに訪れる春のように、荒廃した魂に新しい命を吹き込む宣言でした。傷ついた心と疲れた魂は、感情を一時的にいやす言葉ではなく、存在の中心をつかんでくれる神様の言葉を必要としています。主の言葉は私たちの全人格に触れる力があります。私たちも互いに心に届く言葉をかけるべきです。日々の忙しさの中でも少し立ち止まり、自分の言葉がどのような影響を与えるか考えてみてください。今日かける一言が誰かの深いところに届き、命と回復をもたらすことを願います。
ハレルヤ アーメン

(韓国) 2024/012/22オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
https://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075991/
(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
http://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075994
【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
https://www.youtube.com/watch?v=NjUEbhpxJYE&feature=youtu.be
【賛美】いつもいつまでも
Seekers (Always
andForever
항상영원히까지
https://www.youtube.com/watch?v=MsfDBkdK3XQ&feature=youtu.be
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