2024年12月27日金曜日

韓国の信仰の友より2024年12月16日・17日・18日・19日・21日・23日・24日・26日

 




韓国の信仰の友より2024年12月16日・17日・18日・19日・21日・23日・24日・26日

韓国の信仰の友より
2024年12月16日・17日・18日・19日・21日・23日・24日・
26日・いつも有難うございます。謝謝

2024年12月16日
「(キリストは)ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となる」(ヘブル人への手紙5:9)。この御言葉は信仰の本質を表しています。従順という言葉のギリシャ語原語「ヒュパクオー」(ὑπακούω)には、深い霊的な意味が込められています。「下から」を意味する「ヒュポ」と「聴く」を意味する「アクオー」の結合は、単なる聴取以上の意味を持ちます。これは、神の御前で謙虚にひれ伏し、その御声を深く傾聴し、その御言葉に完全に命を委ねる聖なる応答なのです。救いの完成者であるイエス・キリストは、この従順の究極的な模範となられました。ゲッセマネの園での「わが願いではなく、御父の御心のままに」という主の祈りは、完全な従順の極みを示しています。これは私たちが従うべき霊的旅路の道標です。聖書は、このような従順の道を歩んだ信仰の先達を示しています。アブラハムは、行き先も知らないまま、ただ神の御声に従って旅立ちました。これは人間の理性と計画を超えた純粋な信頼の一歩でした。したがって、真の救いは神学的知識の蓄積や宗教的義務の遂行ではありません。それは救いの源であるイエス・キリストを深く信頼し、従う従順の旅路です。この旅路において、私たちは神の恵みの中で真の自由と命を見出すのです。

2024年12月17日
「成熟を目指して進みましょう…神がお許しになるなら、そうすることにしましょう」(ヘブ6:1,3)。ここで言及されている「成熟」とは、ギリシャ語の「テレイオテース」の訳語であり、新約聖書において特別な意味を持っています。この言葉は新約聖書でわずか二回しか使用されていません。コロサイ人への手紙3章14節では「愛は、すべてを完成させるきずな」として表現されています。つまり「成熟」とは、単なる成長過程ではなく、完全で完成された状態を意味するのです。それはまるで、ぶどうの枝が幹にしっかりとつながり、豊かな実を結ぶようなものです。ヨハネによる福音書15章2節では「実を結ばない枝は、父なる神が取り除かれる」と述べられています。これは、霊的成熟が単なる選択肢ではなく、信仰生活における必須の要素であることを示しています。しかし、このような成熟に至ることは、時として不可能に感じられるかもしれません。だからこそ聖書は「神が許してくださるなら」という表現を用いています。これは、私たちの弱さを知っておられる神からの恵み深い励ましの言葉なのです。私たちに必要なのは、謙虚な心で「父よ、お助けください」と祈りながら、一歩一歩成熟に向かって前進することなのです。

2024年12月18日
「もっと優れた希望がもたらされました。私たちはこの希望によって神に近づくのです」(ヘブ7:19)。望みとは何でしょうか?望みとは、現実の目では見えませんが、霊的な確信によって捉えることができる聖なる実在なのです。人生の旅路において、私たちは時として、望みが失望と絶望の影へと変わってしまう瞬間に直面します。しかし、本文が語る「より良き望み」とは、どのような苦難や試練の中にあっても、決して揺るがない永遠の錨のようなものなのです。これは単なる人間の行為や条件に基づく救いの望みではありません。これはまさにイエス・キリストご自身という望みなのです。私たちはこの卓越した望みであるイエス・キリストによって、神様の御座の前に大胆に進み出ることができるようになりました。聖書はこのように証言しています:「彼は、自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。なぜなら、彼は常に生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」(25節)。永遠に生きておられ、私たちのために絶えずとりなしをしてくださるイエス・キリストこそ、私たちに与えられた最高の望みであり、神様と私たちを結ぶ聖なる橋となってくださるのです。この方こそ、私たちの「より良き望み」の完全な体現なのです。

2024年12月19日
その方の法が刻まれる深い内なる恩寵
「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心に書きつけよう」(ヘブ8:10)という御言葉において、「思い」(ディアノイア[ディア+ノイア])とは、光が闇を貫くように、神の真理が私たちの知性の深みまで浸透する深い洞察と理解を意味するのです。また、「心」(カルディア)とは、単なる感情の中心ではなく、私たちの全人格が宿る魂の中心部を指し示しのです。ここで意志が動き、道徳的な決断がなされ、神への愛が湧き出るのです。これは単なる外的な規範に従う服従ではなく、内側からの真の変化を表すのです。私たちの存在そのものが神の律法によって新しくされるのです。石の板に刻まれた文字ではなく、生きた御言葉が私たちの内に働くのです。このような内なる変化は、自然と神との親密な関係へとつながります。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となり、もはや彼らの罪を思い出しはしない」(10,12))という契約の御言葉のように、形式的な宗教人ではなく、神に愛される子どもとなるのです。この恵み豊かな新しい契約の中で、私たちは日々、神の律法が私たちの思いと心を新しくする奇跡を経験するのです。これこそ、キリストが私たちにもたらしてくださった真の自由であり、命の歴史ではないでしょうか。

2024年12月21日
「今や私たちのために神の御前に現れ(エムファニゾ)...罪を除くために世の終わりに現れ(ファネロ)...待ち望んでいる人々に二度目に現れる(ホラオ)」(ヘブ9:24、26、28節)というみことばは、キリストの現れについて三つの独特な時制と意味を示しています。ここで注目すべきことは、日本語ではすべて「現れる」と訳されていますが、原語では異なる言葉が使われているという点です。特に、現在進行を強調する「エムファニゾ」は英語の’emphasize'の語源であり、特別な注目を促す意味を持っています。これはまさに新聞のヘッドラインのように「これだけは必ず知っておかなければならない」という強調点のようなものです。「キリストを知れば十分である」というこの本質的な真理は、現在の私たちと直接的につながっています。なぜなら、「無知な者や迷っている者たちを思いやることのできる」(ヘブル5:2)大祭司であるキリストは、今この瞬間も神の御前に現れ、弱い私たちのためにとりなしの働きを続けておられるからです。私たちの人生で強調すべきことは、キリストが今もなお神の御前に「エムファニゾ」しておられるという、この揺るぎない事実なのです。

2024年12月23日
「今や私たちのために神の御前に現れ(エムファニゾ)...罪を除くために世の終わりに現れ(ファネロ)...待ち望んでいる人々に二度目に現れる(ホラオ)」(ヘブ9:24、26、28節)。今やキリストは私たちの執り成し手として神の御前に現れ、また罪を贖うために時の完成において現れました。そして最も感動的な約束として、待ち望む者たちのために再び栄光のうちに現れると告げられています。この最後の「現れる」(未来形)という言葉には、特別な意味が込められています。それは、夜明けの光のように突如として輝き出でる瞬間を表現しているのです。かつて復活の主が、ペテロに、十二弟子に、五百人以上の信徒に、ヤコブに、そしてすべての使徒たちに、まばゆい光のように現れたように(Iコリン15:5-8)。人間の理性や倫理による理想郷を説き、最高善に近づくことを語る自主主義神学とは異なり、聖書が語る終末は、私たちの愛する主が、ご自身を待ち望む者たちのために、必ずや再び来られるということであります。この希望は、私たちの信仰の礎であり、日々の歩みを支える確かな慰めであります。主は必ずや再臨されます。この約束は、夜明け前の暗闇にある私たちに、限りない希望と勇気を与えてくれます。私たちは、この確信のうちに、喜びをもって主の来臨を待ち望むことができます。

2024年12月24日
「もし年ごとの供え物が完全な者とすることができたなら…罪の意識を持つことはなかったはずです」(ヘブル10:1,2)。旧約の供え物は完全なものではなかったため、人々は常に「罪の意識」(シュネイデシス、一般に良心と訳される)に囚われていました。しかし、「キリストの血は私たちの良心を清め、死んだ行いから解放して、生ける神に仕えることを可能にします」(9:14)。「罪の意識」、すなわち「罪に縛られた良心」とは、単に悪い行いを避けようとする消極的な良心の働きに過ぎません。そのような行為を超えて、生ける神に仕える積極的な良心の働きへと進まないならば、それは単なる道徳的正義の実現に留まってしまいます。そのような者は、ただ罪の意識に敏感な倫理主義者に過ぎないのです。聖書はこのような倫理的次元を超えて、キリストによって清められた良心とは神に仕える者に導きます。あなたの良心はどの次元に留まっているのでしょうか。

2024年12月26日
「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれた供え物を神にささげ、そして、義人であるとの証明を得たのです」(ヘブル11:4)。カインとアベルの物語をヘブル人への手紙11章のレンズを通して見るとき、私たちは礼拝の本質についての深い洞察を見出すことができます。聖書はアベルを特別に「義人」と呼んでいます。驚くべきことに、これは聖書で最初に登場する義人宣言なのです。アブラハムより先に、ノアより先に、アベルが最初の義人として記録されているのです。彼がこの栄誉ある称号を受けた根拠は何だったのでしょうか。それは、まさに彼の礼拝でした。「群れの初子の中から、その最も良いもの」(創4:4)というのは、単に物質の量や質の問題を語っているのではなく、礼拝者の心構えを表現しているのです。これをヘブル人への手紙は「すぐれた供え物」として捉えているのです。アベルの礼拝は私たちに挑戦を与えます。年末年始を迎えるにあたり、私たちは立ち止まって自分たちの礼拝を振り返る必要があります。形式的な礼拝ではなく、人生の「初子」をささげる礼拝、私たちの最高のものをささげる礼拝をもって一年を締めくくり、新年を始めること。これこそが、信仰の先駆者アベルが私たちに示してくれた信仰の遺産ではないでしょうか。
・・・  感謝


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(韓国)オリュン教会日本語礼拝 2024/011/24能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
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