
韓国の霊的友より2025年3月12日・15日・17日・18日・19日・20日・21日・いつも有難うございます。
2025年3月12日
わたしのことを覚えているのかな。
“主は…私の名を呼ばれた"(イザヤ書49:1)。あの人はまだ私の名前を覚えているだろうか?時が経てば私の名前は忘れ去られ、私の名を呼ぶ声さえ消えてしまうかもしれません。名前が呼ばれるとき、私たちは世界に存在を現します。「私の名前を呼んでくれたとき、私ははじめて私になった」と歌う詩人もいます。名前を記憶するということは、存在そのものを認め、包み込む行為です。「呼ぶ」(ザカル)は、単に頭の中に思い浮かべるだけでなく、積極的に関わり行動する記憶を意味します。私の名を呼ぶ母の声には愛と時間が込められています。喜びであれ心配であれ、その抑揚一つ一つに母の心が乗せられています。しかし、イザヤは母が私を知る前に、神がまず私の名を覚えておられたと言います。すべての人が私を忘れても、最初から私を呼ばれたその方は決して忘れないので、あなたは忘れられない存在なのです。
2025年3月15日
火遊び
「見よ、火を燃やし、松明を身に巻く者よ... あなたがたの燃やした松明の中に入るがよい」(イザヤ書 50:11)。子供の頃、こっそりマッチを取り出して火を燃やした記憶があります。その小さな炎に魅了され、紙を燃やしているうちに、驚いて指を火傷した瞬間、母が叫びました。「火遊びは家を焼く!」イザヤが伝える神様の警告もこれに似ています。私たちはしばしば人生という画用紙の上に自分だけの火を燃やします。「自分のやり方」というマッチで、「自分の情熱」という焚き付けで。その灯りは魅惑的です。コントロールできるという錯覚を与えます。私たちはその火を囲んで踊りながら、いつの間にかその炎に閉じ込められてしまいます。今朝、あなたはどんな火を燃やしていますか?野心の火?怒りの火?不安の火?それとも自己義で燃え上がる宗教の火?イザヤは警告します―その炎は結局あなたを焼き尽くすでしょう。しかし、ここに別の火があります。モーセが見た柴の炎、イスラエルを導いた火の柱、エリヤの祭壇に降りた火。神様の火は私たちを焼き尽くさず、精錬します。通勤電車の中で、混雑したオフィスで、疲れた帰り道で…あなたが燃やした火ではなく、神様がつけた火に従って歩みましょう。その方の火は燃えても消滅させません。その方の光は照らしても影を作りません。今日、あなたの火遊びを止め、その方の火の中に歩み入る勇気を持ちましょう。
2025年3月17日
目覚めよ!
「エホバの腕よ、目覚めよ、目覚めよ」(イザヤ書51:9)。この言葉をどのように読むべきでしょうか?表面的には、神に「目覚めてください」とお願いしているように見えます。しかし、神は微睡むことも眠ることもない方です(詩篇121:4)。では、この叫びの意味は何でしょうか?これは人間が神を忘れていることを表す表現です。実際に神が眠っているのではなく、人間が神の働きを忘れ、まるで神が不在であるかのように感じているのです。言わば、人間の忘却が神を「眠らせているように」見せているのです。エルサレムの陥落と神殿の破壊、そして民の捕囚生活は、神の不在のためではなく、神との関係が断絶したように感じられた結果でした。しかし、神は依然として目覚めておられ、人間が神を求めるとき、神は「目覚めるように」現れます。つまり、神の「目覚め」とは、人間の信仰的な覚醒を意味するのです。「目覚めよ」という叫びは、沈黙する神に対する人間の反応です。バビロン捕囚期はイスラエルの民にとって新しい信仰の文法を学ぶ時間でした。神殿も、いけにえも、王もない状況で、彼らは神の沈黙の中でも新しい方法で神を経験しなければなりませんでした。そして、その新しい信仰の言語の最初の言葉がまさに「目覚めよ」だったのです。この叫びは神を起こすためのものではなく、むしろ人間自身が目覚めるためのものです。神の働きを再認識するとき、神はいつも目覚めておられたことに気づくのです。結局、「目覚めよ」という祈りは神に向けられたものでありながら、同時に私たち自身に向けられたものでもあります。私たちが神を覚えるとき、神が私たちの間に生きておられることを経験するのです。
2025年3月18日
「まのあたりに見る」
「見張りたちが声を張り上げて、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに変えられるのを、まのあたりに見るから」(イザ52:8)。見張り人は城壁の上で一晩中闇を見つめる人です。彼の任務はただ一つ、地平線の向こうから来る危険や知らせを真っ先に発見することです。都が眠りについた時間も、皆が日常に没頭している時も、彼は目を覚ましていなければなりません。何も見えない深い夜、変わらぬ日常の中で彼は待ち続けます。見張り人の心で窓の外を眺めます。世界はいまだに闇と混沌の影に覆われています。戦争と災難、分裂と憎しみのニュースが伝わり、心は不安と恐れで満ちていきます。疑いと絶望の影が差します。しかし見張り人は誰よりも先に夜明けの最初の光を目撃する特権を持っています。まだ薄暗くても、地平線の向こうから朝の光が染み込んでくるとき、夜が退き新しい日が来ていることを悟ります。目で見るということは単なる視覚的経験を超えています。単なる認識ではなく、深い理解と経験を含むヘブライ語の表現です。頭で知る知識ではなく、全存在で体験する悟りです。見張り人のような孤独な待ちの時間が私たちにも訪れます。しかし今日の御言葉は、その待ちが無駄ではないことを教えてくれます。神は私たちのもとに戻っておられます。ある日は小さな気づきとして、ある日は予期せぬ恵みの瞬間として、またある日は苦痛から思いがけない平安として。そしていつか、すべての涙と痛みと死が消える日、私たちはついに神を「目で」拝見することになるでしょう。今日も私は見張り人の心で日常の物見台から目を上げ、主が来られる徴を見つめながら、どんな闇の中でも希望の光を見出す者となることを願います。
2025年3月19日
"私たちはみな羊のようにそれぞれの道に迷 い出た..."(イザヤ書53:6)この一節を読んだ瞬間、胸の片隅が重くなりました。それぞれが自分の道を行くというのが、いかに人間らしい姿なのかを考えさせられます。私たちは皆、それぞれの理由で自分だけの道を選びます。時にはその道が正しいと固く信じ、時にはただ楽な道だという理由だけで選びます。誰かのアドバイスより自分の判断を、共同体の知恵より自分の経験を、神の御心より自分の欲望を優先した瞬間が、パノラマのように駆け巡ります。しかし驚くべきことに、この一節の真の慰めはその後にあります。「主は私たち全ての罪を彼に負わせられた。」私の道、あなたの道、私たちの道—それらすべての彷徨いと逸脱の果てで待っておられる方がいらっしゃいます。道に迷った羊を探し求める羊飼いのように、神様は私たちがそれぞれの道を行っても諦めません。むしろ、すべての不従順と痛みを代わりに背負われます。これが恵みです。私が選んだ道の終わりでも私を待っている愛です。今日も数多くの分かれ道の前に立ちます。しかし今はわかりました。「私の道」ではなく「神の道」を求めるとき、真の自由と平安が訪れることを。
2025年3月20日
招かれざる客
イザヤの預言者は「悩み苦しみ、暴風に揺り動かされ、慰めを受けられない者たち」(イザヤ書54:11)と表現しました。この御言葉が、今日を生きる私たちの姿をどれほど正確に描き出していることでしょう。人生の暴風は予告なく訪れます。突然の病、関係の断絶、経済的困難、心の空虚さ。その暴風の中で私たちは揺り動かされます。かつては堅固だった信仰も、確信していた人生の方向性もすべて揺らいでいるように感じます。深い夜、一人涙を流しながら慰めを見いだせない時間。しかし、イザヤ書54章の御言葉はここで終わりません。11節後半には「見よ、わたしは美しい色彩であなたの石を置き」という約束が続きます。神は私たちの苦しみを無視されません。むしろ、その痛みの場所に美しい色彩の石を置くと約束されています。暴風が過ぎ去った場所に美しい虹がかかるように、私たちの傷と痛みがあった場所に、神は新しい意味と美しさを創造されます。時にはその過程が遅く感じられるかもしれませんが、私たちの涙の一滴一滴を数えておられる方です。暴風の中でも、私たちは一人ではありません。すでにすべての暴風を経験された主が共におられます。暴風に揺れる船の上で眠っておられたイエス様は起き上がり、風と海をお叱りになりました。私たちの人生の暴風も同じです。今日も苦しみと暴風の中にいるなら、少し立ち止まって深呼吸してみてください。暴風の中でも主の御手が私たちを支え、慰めを与えるために待っておられることを覚えてください。いつか、この全ての痛みの場所に美しい色彩の石が置かれるでしょう。私たちの苦しみが終わる日、それは単なる回復ではなく、より深い美しさへの変化となるでしょう。すべての涙をぬぐってくださるその日まで、今日も主の約束をつかんで一歩ずつ前進します。
2025年3月21日
思考の地平線の彼方
「わたしの思いはあなたがたの思いと異なる」(イザヤ55:8)。イザヤを通して伝えられたこの御言葉は、バビロン捕囚生活の中にあったイスラエルの民にとって、絶望の中の希望のささやきでした。祖国を失い、神殿を失い、すべての希望さえも失った彼らは、心の奥底でこう問いかけていました。「神は私たちを忘れてしまったのか?」私たちも同様に、目の前の苦しみと即座の慰めだけを求めることが多くあります。今日と明日、見える現実に閉じ込められ、神のより大きな計画を忘れがちです。しかし、神の視点は異なります。私たちは谷底から険しい崖と暗い影しか見えませんが、山頂におられる神は、その向こうに広がる美しい景色を見ておられます。庭師がバラの木を剪定するとき、満開の枝さえも大胆に切り落とします。バラにとっては理由の分からない痛みですが、その痛みを経てこそ、次の春により豊かな花を咲かせることができるのです。冬の種のように、沈黙と待ちの時の中でも、神は私たちを新しい季節へと準備しておられます。信仰はすべてを理解することから始まるのではありません。むしろ、自分の限界を認め、より高い知恵を信頼することから始まります。今日、説明できない状況の中にいるなら、少し立ち止まって空を見上げてみてください。私たちの思いでは塞がれて見える道も、神の計画の中ではすでに道が開かれています。「わたしの道はあなたがたの道と異なる」。この御言葉は単なる宣言ではありません。絶望の中にも希望を見出させる約束であり、私たちの限界を超えて無限の可能性へと招く呼びかけです。今日も小さな思いを手放し、神の大いなる摂理を信頼しながら一歩前に進むことができますように。
感謝 感謝

(韓国) 2025/3/9オリュン教会日本語礼拝「心を裂いて」能瀬熙至伝道師(YouTube(日本語/韓国語)
https://youtu.be/Km2BL-S3oEM?si=AM84n-lafuojHOZa
(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
http://www.podbbang.com/channels/1790267/episodes/25075994
【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
https://www.youtube.com/watch?v=NjUEbhpxJYE&feature=youtu.be
【賛美】いつもいつまでも
Seekers (Always
andForever
항상영원히까지
https://www.youtube.com/watch?v=MsfDBkdK3XQ&feature=youtu.be
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