2025年3月11日火曜日

韓国の信仰の友より2025年2月27日・28日・・・3月3日・4日・5日・6日・10日・11日・いつもお心遣い感謝致します。

 




韓国の信仰の友より2025年2月27日・28日・3月3日・4日・5日・6日・10日・11日・いつもお心遣い感謝致します。

2025年2月27日

恐れてはならない。
「恐れてはならない(アル・ティラ)」(イザヤ書41:10)。闇が深まるとき、神の声はより鮮明に響き渡ります。これは単なる慰めではなく、神が私たちを招く命令のような信頼の呼びかけです。旧約の民は強大国の影の下で息をひそめて生きていました。アッシリアとバビロンの戦車の音が彼らの夜を眠れなくさせ、捕囚生活の恐怖が彼らの心を押しつぶしていました。「神は私たちを見捨てたのか?」この疑問が彼らの内面を掘り進めていました。周辺国の華やかな偶像は甘い答えをささやき、生存に対する実存的恐怖が信仰を試しました。このような切迫した瞬間、彼らの耳元に御言葉が響きます。「わたしの義の右の手でお前をつかんでいよう。」これは現実を否定する空虚な約束ではなく、深い闇の中で宣言された確固たる真理です。神の臨在は私たちの恐れよりも明らかであり、その約束は私たちの不安よりも確かです。今日も私たちは不確実な未来という危機の前に立っていますが、数千年前に語られたその声が依然として私たちに響き渡っています。恐れは視線を問題に固定させますが、信仰は主権者を見つめさせます。神の摂理と約束は揺るぎなく堅固です。「恐れてはならない」という御言葉を握りしめること、それが信仰です。最も深い闇の中でも、私たちより大いなる神を覚えるとき、私たちは光を経験するでしょう。

2025年2月28日

傷ついた葦を折らない優しさ:真のリーダーシップの姿
「わたしのしもべ…彼は…傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことはない」(イザ42:1-3)。「折らない」とは、単なる放置ではありません。これは折れかけている葦を守り、再び立ち上がる力を積極的に養う行為なのです。「消さない」も同様に、かすかな火の灯りをそのままにしておく消極的な態度ではなく、その灯りが再び燃え上がるように見守り育てる配慮の実践です。現代社会ではこれとは逆の姿が見られます。人の価値は「いいね」の数で換算され、一度の過ちが消えない烙印となります。失敗を許さない文化の中で、人々は挑戦を恐れ、成長の機会を自ら手放してしまいます。特にオンライン空間での無分別な批判や嘲笑は、すでに傷ついた心にさらに深い傷を残します。真のリーダーシップは、壮大なスピーチや華やかな業績から生まれるものではありません。それは弱い者を守り、傷ついた者を立ち上がらせる日常の小さな思いやりから始まります。失敗しても再び挑戦できる安全な環境、弱点が露わになっても恥ずかしくない包容力のあるコミュニティが形成されたとき、初めて真の成長とイノベーションが起こります。イザヤのメッセージは私たちに明確な課題を提示します。周囲の弱い人々にどのように接しているか、無意識のうちに「傷ついた葦」を折ったり、「くすぶる灯心」を消したりしていないか、振り返らせます。誰かを生かし、再び輝くよう助け、仕えること、これこそが主が打ち立てられるリーダーシップなのです。 

2025年3月3日

「恐れるな。わたしはあなたを贖い、あなたを名で呼んだ。あなたはわたしのものだ」(イザ43:1)。「あなたはわたしのものだ」という言葉は、単なる関係性の表現を超え、神が私たちの存在そのものを自分のものとして宣言される強い所有権を表しています。これは私たちが神に属していることを確証する深い契約の言葉です。この御言葉が特別な理由は、神がこれを宣言された時期にあります。イスラエルはバビロン捕囚として異国の地に連れて行かれ、絶望の中にいました。イスラエルは罪のために裁かれ、すべてが崩れ去ったと思っていました。しかしそのとき神はこう言われているようです:「あなたがたの失敗があなたがたのアイデンティティを決定するのではない」。どのような状況でも、彼らの価値は変わりませんでした。「贖った」とは、代価を払って奴隷を買い取り、自由にすることを意味します。これは単なる取引ではなく、深い関係の回復を意味します。新約聖書ではこの概念はイエス・キリストの十字架の犠牲によって完成されます。神はイスラエルを贖い、単なる所有者ではなく愛の父となられました。私たちは神の愛によって代価を払って買い取られた大切な子どもです。この真理は私たちにも同じように適用されます。私たちは弱く、失敗することも多いですが、主は変わらず「あなたはわたしのものだ」と宣言されます。世間の評価や自分の成果ではなく、神の言葉が私たちのアイデンティティを決定します。私たちの価値は自分の功績ではなく、神の変わらない愛と誠実さにかかっています。この愛の確信の中で神につかまるとき、私たちは世の不安と恐れを超えて勇敢に生きることができます。「あなたはわたしのものだ」。この言葉に込められた神の愛の宣言より確かな慰めと希望がどこにあるでしょうか。

2025年3月4日

私があなたを造ったから覚えている:創造主の温かい約束
「覚えよ…私があなたを造り上げた…あなたはわたしに忘れられることがない」(イザヤ書44:21)。まさに「私が造ったから覚えている」という意味の言葉です。これは単なる因果関係を超えた存在の深いつながりを含みます。創造者の手が触れたものは、すでに創造者の一部になったということでしょう。陶工が自分が作った陶器のすべての曲線と質感を覚えているように、私たちを造った方は私たちのすべてを覚えています。深く刻まれ、へこんだところまでも。「造った」ということは、過去にすでに終わったことではなく、現在まで続いている過程を含みます。主は今も私たちを形作っておられ、その過程の一瞬一瞬を鮮明に覚えておられます。陶器を作る作業が土を選び、こね、形を作り、焼き、釉薬を塗るという長い旅のように、おそらく私たちはまだ窯の中で焼かれている陶器のような存在なのでしょう。だから私たちは主に忘れられることなく、その方の記憶の中に永遠に存在します。歴史から消され、すべての痕跡が消えたとしても、あなたを造った方の心の中であなたは覚えられています。「覚える。」これは、まるで「ふと思い出して電話したよ!」という嬉しい友人の声のような、主の慰めの言葉です。誰かに覚えられているということは、実に、それ自体が温かい贈り物です。

2025年3月5日

イザヤ書45章:逆説の神
イザヤ書45章は神学的逆説の傑作です。神が自らを現される方法は、私たちの論理を覆し、期待を崩壊させます。神が異邦人キュロスを「油注がれた者」(1)と名指しされる瞬間に、私たちは驚きます。敵陣営から救い主が現れるというのは、私たちの境界線を揺るがします。「わたしは光をも造り、闇をも創造し、平安をも作り、災いをも創造する」(7)という御言葉は、静かな湖に石を投げたように、私たちの理性的世界観に波紋を広げます。神は私たちが作った善と悪の区別線と神学的枠組みを優しく沈めてしまわれます。「ご自身を隠される神」(15)という神秘的なささやきは、私たちの心を貫きます。神は霧のように見えないようでありながら、太陽のように明らかに現れ、沈黙しているようでありながら宇宙のあらゆる音で語り、不在のようでありながらすべてに存在される方です。捕囚生活の闇の中で、イスラエルは神の御顔を見ることができませんでした。しかし神は依然として歴史というキャンバスに大胆な筆致を加えておられたのです。帝国を絵の具として、王たちの心を道具として、ご自身の救済計画を描き出しておられました。川の流れが海へと向かい、星の光が闇を貫くように、神の計画は混沌を突き抜けて前進します。この美しい逆説の中で、私たちはついに真の神の御顔と向き合うことになるのです。

2025年3月6日

荷物のパラドックス:私を担ってくださる神
「ベルは倒れ、ネボは屈服した...彼らは荷物となり、疲れた獣に載せられた。」(イザヤ46:1)かつて威厳を誇ったバビロンの神像が今では無力に荷物のように運ばれていきます。人々は神を崇めると言いながら、結局自分たちが作った神像を担がなければなりませんでした。神ではなく、荷物になってしまったのです。しかし、神は違います。「わたしは造ったのだから背負い、抱いて救おう。」(4節)バビロンの神々は人々が支えなければなりませんでしたが、神は私たちを担ってくださいます。鷲がひなを翼の上に乗せて守るように、私たちを抱き、導いてくださるのです。あなたは「ベルとネボ」を担いでいませんか?成功への強迫観念、認められたいという欲求、比較から来る不安感、お金と名誉、完璧でなければならないという重圧...最初は力と安定感を与えてくれるように見えますが、結局私たちを押しつぶす重荷となります。神は問いかけています。「あなたはわたしに頼るのか、それとも最後まで一人で荷物を背負って行くのか?」荷物を委ねるというのは、単に手放すことではありません。み言葉をしっかりと握り、祈りによって私たちの荷物を神に差し出すことです。私たちが立ち止まり荷物を委ねるとき、神はすぐに私たちを背負ってくださいます。「そんなに遠くにおられず、遅れることなく」(13節)私たちを助けるために来てくださるからです。あなたの「ベルとネボ」を置き、主に委ねてみてください。

2025年3月10日

わたしは永遠に倒れない王である
イザヤ書47章はバビロンの傲慢さの正体を告発しています。バビロンは「私は永遠に倒れない女王だ」(イザヤ47:7)と叫びました。彼らは自分の力と繁栄が永遠に続くと確信していました。しかし、歴史は明確な真実を示しています。最も強大だった帝国も、栄光に満ちた王も、最終的には消え去るという事実です。私たちの中にも小さなバビロンが潜んでいます。成功した時、健康な時、私たちは「私は絶対に崩れない」と意気揚々としています。バビロンが「決して寡婦になることはなく、子供を失うこともないだろう」(イザヤ47:8)と自信満々だったように、私たちも喪失を経験しないという幻想を抱きます。無意識のうちに、自分だけは例外だと信じているのです。しかし、かつて不滅を夢見た帝国は今や考古学者の発掘現場となり、永遠に記憶されることを望んだ王たちの記念碑は博物館の片隅に静かに場所を占めるだけです。これが人間の究極的な現実です。真の強さは、自分の弱さを認める勇気から生まれます。「崩れることのできる有限な存在」という現実を受け入れる時、私たちは逆説的に自由を体験します。完璧でなければならないというプレッシャーから解放される真の自由です。バビロンのように、私たちも時には自分を絶対的な存在だと思い込みます。しかし聖書は教えています。私たちの命は霧のようにほんの一瞬現れては消えていくものです(ヤコブ4:14)。この有限性を認める時、私たちは重要な霊的真理に到達します。「神なしでは、私は何者でもありません。」この謙遜の告白こそが、私たちを最も豊かにする逆説です。自分の限界を認めるその瞬間、私たちは神の中で真の可能性を発見することになります。バビロンの崩壊が私たちに教えてくれる最も貴重な教訓でしょう。

2025年3月11日

「悪人には平安がない」(イザヤ書48:22)。人々は成功、認められること、所有、権力を追い求めて生きています。より多く、より高く、より速くを望みます。しかし、それらすべてを手に入れても心が空虚であるのはなぜでしょうか?人生のポケットが満たされるほど、むしろ内面がより空っぽになるのは、私たちが真の平安を得ることができないものを握りしめているからです。嘘と策略を用いて王座に上り、他の人々を踏みにじりながら権力を握りました。しかし、彼らが得たものは権力ではなく、重荷でした。偽りの成功は結局、ガラスで作られた牢獄になってしまいます。表面上は堅固に見えますが、いつでも壊れる可能性のある不安な場所。人々は歓声を上げますが、夜が更けるほど、一人残された孤独と空虚さはより深まります。悪人には平安がありません。悪人とは神から離れ、自分の道を固執する者です。人間的な権謀術数で得た権力からの平安は決して長続きしません。むしろ、より大きな不安と恐れを呼び起こすだけです。多くの言葉で他人を欺くことができても、自分の良心だけは欺くことができません。もし「より多く、より高く、より速く」というささやきが絶えないなら、魂の中心で道を失っているのかもしれません。平安は権力の大きさから来るものではありません。ただ神の中でのみ真の休息を得ることができます。今日、あなたの心は平安ですか?答えを知りながらも問うこの質問の前に、私たちはただぼんやりと立ち尽くすしかありません。
謝謝



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(韓国) 2024/012/22オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
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(韓国) 2025/01/12オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
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