2024年5月24-25日 韓国の信仰の友より
2024年5月24日 韓国の信仰の友より
何時も有難う御座います。
「君侯たちのために、あなたが悲しみの歌をうたって言いなさい」(エゼキエル19:1,2)。君侯たち、あるいは指導者たちがどれほど重要なのかはいくら強調してもしすぎることはないでしょう。しかし指導者に関する名言も助言も数えきれないほどありますが、結局は自分の性向に合う人だけによる盲目的な仲間政治が蔓延するのは古今東西を問わず万古の真理かもしれません。エジプトに囚われたエホアハズ、エジプトのために重税を課し、預言者を迫害し、バビロンを裏切るエホヤキム、父の間違った判断によってバビロンに捕囚となったエホヤキン、そしてバビロンを裏きり預言者エレミヤを牢に投げ込んだゼゲキヤ、これらユダヤの最後の王たちのことは、神の御言葉に従った善王ヨシヤの息子たちでした。どうして!と疑問が湧き起こるところです。この「悲しみの歌」(キナー、哀歌)は民のためである以前に、主ご自身のための歌であったのではないでしょうか。主ご自身が悲しい歌を歌ったことでしょう。しかしこのキナーとは失われたことへの悲しみをうたう葬送曲でありながら、慰めと回復を願う痛哭でもあると言えます。今の捕囚は滅亡ではなく、「怒りによって引き抜かれ、地に投げ捨てらた東風に枯らし…乾いた地に移し植えられた」(12,13)木をもう一度生かすための最高の指導者である主による特別措置です。
2024年5月25日 韓国の信仰の友より
何時も有難う御座います。
「第7年の五月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老たち数人が主の御心を問うために来て、わたしの前に座った」(エゼキエル20:1)。神の民イスラエルは崩れました。回復の希望すら見えない真っ暗の行き詰まりに置かれてしまいました。こんな息苦しい状況が続く中、長老たちは神の御心に問い祈らざるを得なかったでしょう。だから15章に続いてエゼキエルに訪ねてきました。しかし主なる神様はきっぱりと彼らを断ります。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ11:24)と言われるのになぜでしょうか。「願い求めても、与えられないのは自分の楽しみのために」祈るからだと聖書は教えます(ヤコ4:3)。預言者を遣わし何度も警告しましたが、イスラエル民は「父祖の偶像に目を引かれて…父祖の歩みに従って…諸国民のように、世界各地の種族のように」(24, 30, 32)生きようとしたのです。そのような先祖からの習慣に溺れて、ちっとも変わっていなかったのです。彼らの図々しさに神様もうんざりしたことでしょう。この世の人々がやってることをやりたいという思いがイスラエルの民の心の根底にあったのです。「みんなやってるからわたしもやる」という論理に慣れている現代のクリスチャンに対する警告でもありましょう。「この世を愛し世に行ってしまったデマスを」思い起こします(IIペテロ4:10)。
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