今日僕スーツ着て無いんですよ。今、どうでもいいって思った方いませんか?逆になんでスーツ着て無いの?って思った方もいませんか?いつも、メッセージなどの奉仕の時はなるべくいい格好を僕はするようにしています。それは、神様に心も外見もベスト(最善を)捧げたいと思っているからです。ただ、今日なぜ、きてこなかった方かと言うといかに自分たちが律法に縛られて生きているかを感じて欲しかったからです。見た目や外見に縛られ、時に相手を批判してしまう事がある事に気付いて欲しかったからです。きっとこの場所にいる皆さんは私の洋服で批判をして無い事だと思いますが。今日のメッセージはですねガラテヤ2章16〜21節ですが、この当時も教会に置いて、律法主義というのが強まっていました。ここで、ガラテヤ書の背景を見ていきますが、当時、異邦人への伝道もさかんになっておりパウロが各地で伝道していました。そして、ガラテヤの教会にもその福音は届きました。しかし、1章6節にあるように“他の福音”が教会には入ってきてしまったのです。パウロが言うように“他の福音”と言うのは他に福音があるわけではなくこれを教える人たちが“真の福音”を変えてしまおうと教会をかき乱していたのです。そして、この“他の福音”というのは言うまでもなく律法主義です。その律法主義の中には例えば、異邦人も割礼を受け無いといけない、食べ物の問題、他にもいろんな事があります。律法主義者たちはこれを異邦人にも強要し、これがあたかも“真の福音”であるかのように伝えたのです。もし、律法を守らないならその人は義と認められ無いかのように言ったのです。この時、ペテロも同じような行動をとってしまいます。元々、異邦人と共に食事をしていたのに律法主義者たちがやってくると彼らの目を恐れ異邦人から離れていきました。そして、パウロと共に行動していたバルナバもそっちの方向へと行ってしまいました。パウロはこれに対してペテロを戒めます。このようにガラテヤの教会に入ってきてしまった、“他の福音”に対して、それが間違いであるとパウロはガラテヤ書の中で述べています。これが、簡単なガラテヤの教会の背景なのですが、
今日、注目したいのは私たちがキリスト共に歩んでいく時に律法によって生きるのかそれとも、解放されたものとして自由に生きるのかということを共に考えていきたいと思います。今、ここにいろんなルールや律法が書かれた紙があります。このルールを全て守れた人はいますか?
ちなみに、これを全て守ったと言う人は多分自分を騙している人でしょう。一つ2つ守ってきたと言う人はいるかもしれませんが、全てを守れた人たちは絶対にいないでしょう。このように、人間は完璧に律法を守る事はできません。では、律法によって義と認められる事はあるのか?当然、数ある中の一つでも守れないのであれば私たちは律法によって義と認められる事はありません。私たちが完璧に律法を守れないからです。
では、そもそもなぜ律法を完璧に守れない事を神様は知りながら、人に律法を与えたのでしょうか?ローマの7:7節には律法を通さねば私たちが罪を知らなかったとあります。また、ガラテヤ3:19〜25にはこのようにあります。
律法は主にネガティブな役割とポジティブが役割を成します。
ネガティブな役割というのは律法が虫眼鏡のように、当時律法が与えられた時のイスラエルの行いというのを拡大し、罪を見出す事です。ポジティブな役割というのはイスラエルの民に教育係、先生のように道から踏み外さ無いようにガイドしてくれるその指針のようなものでした。律法はあくまで教育係であり、私たちの行動や思いを吟味し、罪を責め、批判します。まして私たちの罪を赦したり、罪から解放する力はありません。しかし、この律法はイエスキリストによって完全なものとされました。
2週間前にキムテジョン牧師がイエス様は律法を廃止する為に来たのではなく、律法を完全にする為に来たのだとメッセージをしましたが、その通りで、イエス様は律法を完全にする為に来られました。イエス様は律法を2つに要約されました。みなさん何ですか?マタイ22章36〜40をお読みします。イエス様が言ったのは“心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ”と“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ”ですね。また、イエスキリストが十字架にかかり私たちの罪を赦す事によって律法を完全にされました。そして、アブラハムに与えられた約束を異邦人の私たちにも与えてくださいました。それなのに、当時の教会ではイエス様のその十字架での死がいかにも無駄であるかのように扱われ、私たちが得た自由を無視し、神様の恵を一つの民族に限定するようにされていた事に対して、パウロは怒ったのです。パウロは決して律法を批判してるのではありません。むしろ、律法がよいものであると言っています。しかし、イスラエルの民がそうであったように、私たちが律法に完全に従う事はできず、その従う力も律法からは来ないという事を言っています。しかし、その反対にだからこそイエス様が律法を完成させられ、私たちのうちにキリストが霊を通してすんでくださるのだと言います。ここに自由があります。私たちのうちにキリストが住んでくださっているのです。
では、逆に私たちは自由であるから何をしてもいいのでしょうか?まったくそういうことではありません。マタイの5:48節でイエス様が天の父が完全であるようにあなたがたも完全でありなさいと言います。ほかにも、私たちが完全になるように言われる箇所があります。例えば、第2コリント7:1、第一ヨハネ3:6です。ジョンマッカーサー牧師は“キリストが死んだ故に私たちが罪に楽しまされてはならないと言いました。”神の恵みを罪を行うための言い訳としてはいけないのです。罪には刈り取りが伴います。ガラテヤ6:7〜9。私たちが罪という種を撒く時、刈り取りがあります。例えば、憎しみの種を撒く時、憎しみを刈り取ります、不信仰の種を撒く時、不信仰を刈り取ります、現代で言えば、甘いものを食べすぎたり、お酒飲みたいだけ飲んだら病気という形で刈り取る事になるでしょう。また多くの時に後悔や、罪悪感などの刈り取りをするでしょう。同時に良い種を撒けば良いものを刈り取ります。赦しを撒く時赦しを刈り取り、愛を撒けば、愛を刈り取ります。私たちは全ての事が赦されています、しかし、全ての事が益となるとは限りません。第一コリント6:12。これは仏教で言う因果応報に近い考えかもしれません。なにか、間違った事をすればいずれそれが自分に返ってくると。しかし、因果応報とは違います。もし私たちがキリストの内にあり、神を愛するなら神様は私たちの撒いた種を刈り取る時期に成長させ益とする事ができるからです。自分の力ではなく神の恵みによってです。ローマ8:28。また、神様は憐み深い方です。旧約でモーセがイスラエルの民をエジプトから出してさまよっていた時、イスラエルの民はモーセに水をくれと言いました。その時神様はモーセに岩に言葉で命ずるようにいったのに怒りに囚われたモーセは岩を叩いてしまいました。神様は水を出す事をされましたが、その罪の故にモーセが約束の地に入る事を許されませんでした。しかし、憐み深い神はこれまで忠実に従ってきたモーセを覚え、約束の地に入る事は許さなかったものの見る事を許されました。このように、私たちの失敗に対しても神様は憐み深いのです。クリスチャンの歩みの中に3つのプロセスがあります。それは、義認、聖化、そして栄化です。ここに再生が入ることもありますが、義認とは過去形の救いでイエスキリストを救い主として信じた時に私たちが信仰によって義と認められることです。聖化とは現在進行形の救いで、人生をキリスト共に歩んでいく中で変えられていき、罪から解放されていくことです。そして、栄化は未来形の救いで、最終的に死んだ時に聖化が完了し完全な者となることです。私たちは、今、聖化の最中で日々練られ、つくりえられています。しかし、この聖化は私たちの人生の終わりが来るまで完了しません。生きている間に完全になる事は無理だと言う事です。だからと言って、神様は私たちを責める事はなさいません。
最近、気づかされ思わされているのは、このプロセスにいる時に自分を責め無い事です。私たちには理想があるでしょう。誰しも完璧になりたいと思う人はいるはずです。私も完璧になれたらなと思う事がありますし、もし間違えてしまったり、聖書とは違う考えを持ってしまうとつい、自分を責め落ち込んでしまいます。また、時に理想と過去のはざまで成長していないと感じる事があります。ある牧師がこんな例えをしました。自分が一歩進む時に理想も一歩前に進んでいくんだと。なぜなら、私たちが理想に近づけば近づくほど、高慢になり、自分の義(self-righteous)になってしまうからです。しかし、確実に一歩づつ成長していると。私たちは自分の罪に気づきつまずいた時に自分を責める事をせず、神様に悔い改めるものでありたいです。神様は私たちが自分を責める事を望んではいません。むしろ、悔い改める事を望んでいます。もし、自分を責めるだけならイスカリオテのユダといっしょじゃないですか。ユダはイエス様を銀貨と引き換えに売り渡しました。しかし、後にその罪悪感に押しつぶされ自殺します。神様はこのようには望んでいません。神様に悔い改め、立ち返る事を望んでいます。悔い改めるとはどういうことですか?間違った道に行った時神様に立ち返り神様の方をもう一度向くことですよね?ならば、自分を責めその道にとどまるのではなくもう一度神様の方に向き直しましょうよ。私たちは失敗します、間違います。ペテロがそうでした、あれだけイエス様を慕い、自分の命を捧げるとまで言った彼は、最終的にイエス様を裏切ります。このガラテヤ書でも律法主義者達の目を気にし、異邦人から離れてしまいます。しかし、イエス様はこう言われます“立ち直ったら兄弟たちを励ましなさい、私があなたの為に祈っているから”と。イエス様は私たちの為にとりなし、祈ってくださいます。一度失敗したから、もうそこで終わりではなく、何度も何度もチャンスを与えてくれるのです。私達も早天祈祷会に言っているから、奉仕しているから、献金しているからと高慢になったり、牧師も先生、先生と呼ばれてはいつの間にか偉くなったように感じ自分で自分を義としようと失敗します。しかし、神様の恵と憐みによって私たちは日々成長させられていくのです。最後にでは、どのように、自由に生きるのかを見ますがそれはガラテヤ5:13〜18です。私たちが御霊によって導かれる事です。御霊を通してキリストが私たちの内に住んでくださっています。私たちが御霊と共に歩む事によって、何が間違いで何が正しいかを判断できるようになります。また、聖書を読む中で、祈る中で、神様をもっと深く知り、御霊を働かせる中で、正しい方向へと導かれていきます。
結論を言いますが、私たちはキリストにあって、自由です。しかし、その自由を悪の機会に用いるのではなく、もっと神様を愛し、仕え、また御霊に導かれる機会に用いたいと願います。そして、聖化の過程の中で自分を責めるのではなく日々悔い改め、成長させられるものでありたいです。私たちの内に住むのはもはや私たち自身ではなくキリストが住んでいてくださる、そして十字架によって罪を全て赦してくれました。その恵みを覚え、主の中にあって自由な人生を過ごしていきましょう。
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