2010年11月8日月曜日

【2010年10月17日クリスチャン新聞より】



【2010年10月17日クリスチャン新聞より】

「真の弟子訓練」こそがカルト化を防ぐ
まことに戦慄すべきことだが、牧師が「弟子訓練」の名で
信徒たちを虐待する事例は、想像を絶するほど多い。
私は、日本各地のいろいろな団体の被害者たちと会って
いるが、彼らが受けた精神的・肉体的・経済的な傷は、
言葉に尽くせぬほど悲惨だ。通常の人生を再開するのすら
困難な人も少なくない。
しかし、だからと言って「弟子訓練」自体を、教会を
カルト化させる悪だと断罪してしまうのは、「湯と共に
赤子を捨てる」ごとき的外れだと言わなくければならない。
「弟子訓練」というものが、牧師に依存し盲徒するような
信徒を量産してしまう危険を内包するのは事実だが、
それはあくまでも「弟子訓練」に携わる指導者の人格の
問題であって、「弟子訓練」自体は、神様からの教会への、
最も基本的な命令なのである。
××××牧師は先日の公判で、「弟子訓練とは何か?」と
いう裁判官の問いに対して、「信徒が自分でも伝道できる
ように育てること」と答えていたが、「弟子訓練」とは
教会の量的成長の手段なのではない。「弟子訓練」の焦点は、
あくまでも「信徒一人ひとりの人生」だ。
彼らが牧師に依存しないでも日々キリストの御心を
直接掴み、それを生活現場(家庭・職場・学校など)で実践
して、主の弟子として幸福な信仰生活が出来るように
成長するのを、励まし支援すること。
教会のこの最も本質的な働きを「弟子訓練」と呼ぶのだ。
中世カトリツク教会は、それをしなかったからこそ、
教皇の絶対的権威に民衆が盲徒するカルト的な王国となった
のである。
宗教改革とは、それに対する「教会正常化運動」だった。
しかし20世紀になって、世界各地でプロテスタント教会
自体が「中世化」して、信徒たちは牧師の権威のもとで、
せいぜい「お手伝い」として、おとなしく形式的な礼拝を
捧げるばかりになる傾向が生じてしまった(日本だけでなく、
戦後の韓国も同様)。
「弟子訓練」とは、そのような状況に対するプロテスタント
教会の真撃な自己反省から生まれたものである。
それは、宗教革命の根本精神=万人祭司主義を徹底して、
信徒たち一人ひとりを牧師と同じ身分の「祭司」として建て
あげることを眼目とする。
だから、真の「弟子訓練」とは、牧師も信徒も精神の御前に
同じ身分であることを絶対的な前提として、同じ目の高さで
行うものである。
牧師は、信徒らと共に日々御言葉を自分の生き様に適用し、
悔い改めつつ彼らと手を取り合って成長しなければならない。
そして、実はそのような基本的な営みこそが、教会を
カルト化=牧師の王国化から守るのだ。
たとえ「弟子訓練」を標榜しない教会でも、牧師が自分と信徒
たちとの「霊的格差」を強調するところには、やはりカルト化
の症状が現れている。
逆に、牧師が信徒たちと真に同じ身分として、彼らとの
透明かつ親密な人間関係の中で、共に人格的に成長し続ける
教会なら、カルト的な誤った「弟子訓練」の被害者たちにも、
癒しを届けられるのである。
クリスチャン新聞 2010年10月17日(日曜日)
教界ニュース オピニオン教界から
東京サラン教会牧師 坂本平部 出筆

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